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人材教育 environment

あらいでは「私を含め仲間を会社の財産」としている。なぜ、財産といえるか。財産とは、「価値を高めるもの」「価値を生み出すもの」という定義があるからである。だとしてみれば、より才能のある人を育てる事は、会社を強くする手段であるともいえる。人材と人財と混合する事は慎みに欠けているかもしれないが、企業の目的である財産(価値)を高める、生みだすのは私を含め仲間なりと考えれば、道理からはずれているわけではない。各々に蓄積された知能的な含み資産を活かす事は財産ともいえる。会社の将来を決するものは、常日頃から、「周りをより良くする立派な仕事をして自分の人生を切り開いていく」という願望から、その含み資産を活かす様にしていく事が大切であり、更にそれを活かす事は、将来の名誉と利益を約束するものである。この様にする事はもちろん時代の進歩に対応出来るし、逆境にも強いものである。

良い習慣を身に付ける

「聖人と()れは(るい)を同じくする者なり」と『孟子(もうし)』にある。

これは【知識と道徳・学識と人格が優れる理想的な人も、我々の様な普通の平凡な男も同じ人であるが、そこに学問を始めどの様に修養したかの差である。つまり、知識と道徳・学識と人格がすぐれている理想的な人もやはり人で、その本能は自分と同じである。】という意味である。

また同書に「万物(みな)()れに備わる」とある。

これは【あらゆるもの・宇宙に存在するすべての物事の道筋・ことわり・道理はすべてわれわれの心に自然に備わっていて、素晴らしい心根・誠実な心、良心をいつわらない事、思いやりがあって情け深い事・かわいがり大切にする事(仁慈)、(いさ)ましい(勇気)、物事を認識したり判断したりする能力・知恵(智)等の本能として備わっているものは自分自身の心の中に求める事が出来る。】という意味になる。そうすればすべて同じように成長してしかるべきであるが、結果は(いちじる)しく違ったものになる。これは植物が気候風土などによって成長が異なったり、肥料、除草などの管理の次第によって生育が違ってくるのと同じく、人間の本能も環境によって変化する。学習して、偉大になる人もあれば、普通で終わる人もある。この様に考えると、格別の例外を除いては生まれた時は誰も本能は同じ、家庭や学校時代、社会に出てからの努力や毎日の良い習慣(仕付(しつ)け)によって差がつく。そう考えると、良い習慣を指導し、身に付けていく事で優れた、有能な人に成長させる事が出来る。

教育を怠れば、いつになっても普通の人でしかない。しかし教育に努めれば立派な人にする事が出来る。つまり誰もが同じくもっている本能をどれだけ伸ばすかが、企業の将来を左右する重大な事である。

全ての人が、自分が生まれた時から持っている「人に勝ちたい」「出世したい」「金持ちになりたい」「立派な相手を見つけたい」等の本能を伸ばそうとしていが、具体的なやり方は含まれていない。だからこそ、そのやり方を教える事が大切である。

そのやり方は、精神・マインド((心・魂・精神・人間力・器量・情熱)を重点的に磨き、人格を高める様にしていかなければならない。この精神・マインドは常に意識し、磨いていく事は避けては通れない。

その理由は、本能だけでは、周りに迷惑がかかり、風土を悪くする為、考え方を修正しないと長く努力し続ける事が困難になる。そうならない為、働く事の最大の意義である「自らの心を磨く・人格を高める為に働く事」を理解、納得し、行動していかなければならないのである。周りをより良くする立派な仕事をして自分の人生を切り開いていく事を紐付ける。更に、近くにいる人(仲間・お客様・会社・社会)の順番から幸せにしていく。その為に自分を磨く努力をする。

その上で、スキル(手腕・技量・知識・感性)を磨き、仲間を良い方向に導く事が大切である。

精神・マインドが勝り、それがにじみ出る様に問題を解決する為のスキルを磨いていくのが正しい姿であると考えている。その様にして「人を創る」努力をしないといけない。

「勉強しない。お説教はなおさら嫌い」といって、人材教育などしないほうが仲間は喜ぶ、と考えている人もいるかもしれない。

しかし、人材教育は嫌いだが必要である事は誰もが知っている。優れた社会人になりたい、出世もしたいという欲望のある事も確かである。また、学びもせず、汗も流さず人の上にたつ事は出来ない事も知り抜いている。という事は、指導によっては仲間が自己形成に意欲的になる可能性は十分にあるといえよう。そうさせる事が上にたつ人の責任である。いま、その仲間の為にならない(あまい・ぬるい)考え方で望む事に耳を傾けて教育を怠ると、伸びる芽を摘むに等しく、近き者を喜ばせる経営ではない。

真に喜びを与え様とするなら、本能を伸ばし、人材に育て上げる事である。志ある人なら、現在の甘えを許してくれる喜びよりも、成功の喜びへ導いてくれる今の厳しさを選ぶに違いない。

『言志四録』に、「学は己の為にするを知るべし。これを知る者は必ず之を己に求む。これ心学なり。」とある。これは【学問は(おのれ)の修養の為にするものだという事を知るべきだ。これを知る者は必ずこれを自分に求める。これが心を修める学問である。】という意味である。

学問は自分を成長させる為のものである。働く事は自分の為にするものだし、働く場とは自己成長の場とするものも当然と考えるべきである。人というものは例外なく自分が一番可愛い。可愛い自分の為となれば、非常な困難にあって苦しみ悩む事であっても、すべて自己成長の為と思えば(くる)しい事も楽しみになる。給料を与えてくれて自分を成長させてくれるのが会社と考えれば不平不満も吹き飛ぶ。周りをより良くする立派な仕事をして自分の人生を切り開いていく。自分を磨く為に、人格を高める良い習慣を身に付けないといけない。

学ぶ

 佐藤一斎の『言志晩録』に、「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。」とある。

これは【幼少の時に学んでおけば、壮年になってからそれが役に立ち、何事かを為す事が出来る。勢いが(さか)んな年ごろにして学べば、すなわち老年(ろうねん)になっても気力も(おとろ)えず。老年になっても学んでいれば、見識も高くなり、社会貢献もでき、死んでからも、その名は朽ちる事はない。】という意味になる。

もし、還暦(かんれき)古希(こき)を超えても頭脳が明晰(めいせき)であれば、体力は青年に劣っていても、知的労働は立派に果たせる。しかし、給与は青壮年よりも高く、体力はもちろん知力も劣るという事では、会社が先に潰れるだろう。

会社も人も一番恐れなくてはいけないものは、色々考えられるが、その一つに仲間の資質の目減りである。年々わずかでも賃金は上がる。上がった分だけ能力が向上すれば目減りはない。賃金が上がっていくのに能力がそれに比例して上がらなければ、その人の価値は下がった事になる。つまり、目減りがおこる。能力がともなわないから賃金を引き下げる、というわけにはいかない為、この目減りが続く(謙虚に学ぶ心がないと過信・慢心・傲慢を招き、天狗になってしまう)事は会社も人も命取りを意味する。

また『論語』に「(ふん)せずんば(けい)せず、()せずんば(はつ)せず。一隅を挙げるに、三隅(さんぐう)()って(はん)せずんば、(すなわち)(ふたたび)せざるなり。」とある。

これは、教えを受けたいと思っている者で、わかろうとして思うようにいかなくて苦しむが、疑問の解決に向かって情熱がもりあがる様にならなければ、私はこれ教え導く事はしない。わかっているが(言うべき内容もできて)、言いたくてもうまく言えなくて、もどかしい気持ちにならなければ、私ははっきりとは教えない。更に、例えば、四角の一隅について教えると、それを基にして、他の三つの隅も自分で推測して説明出来るほどでなければ、繰り返し教える事はないだろうという意味になる。

学ぶとはこんなに厳しい事なのかと驚くが、考えてみれば、これはごく当たり前の事だと気づく。自分の知識・技術を伝授するにも、いろいろ方法があるが、ここで大切な事は、教えを乞う側に、本気で自ら学び、吸収し活かそうとする熱意がなくては始まらないという事である。

本当に良い人生を歩んでいく為に、「周りをより良くする立派な仕事をして自分の人生を切り開いていく」という強固な志があり、厳しい未来に挑戦し、目の前の問題を何とか解決しようと、自ら考え、学び、吸収し活かそうとする熱意がない人に、こちらが「こうしよう」「ああしよう」と教えても、教えてもらっている本人は、ただ働かせられていると考え吸収する事が出来ない為、結果的にお互いの時間が無駄になってしまう。

だから、あらいは、常日頃から、周りをより良くする立派な仕事をして自分の人生を切り開いていくという願望から、その含み資産を活かす様にしていく情熱のある人とない人とでは昇給に2倍から3倍の差をつけていく。

また、40歳になってもこの事が理解出来ない人は会社を去らねばならないと考えている。なぜ、こうした残酷ともいえる制度(考え)を設けざるをえなかったか。

佐藤一斎の『言志晩録』の文言からすれば、自分を(かな)しくあわれな事に追いやる様に設けたのは、我々自身である事に気づく。

そうならない為にも人材教育は人的目減り防止策であり、もっとも有効な投資とも考えられる。