あらい採用サイト

人のこと environment

〝仲間一人ひとりに蓄積された知能、経験、人格を活かす〟ことは会社の将来を決するものである。常日頃から、「周りをより良くする立派な仕事する」という願望から、潜在意識を活かすようにして「自分達の人生を切り開いていく」ことが大切になる。
 これは時代の変化に対応ができ、逆境にも強い。よって、将来の地位・名誉と利益を約束するものである。

あらいの人間力を高めるように人材育成をする(根本)

 人格(知識・知恵・見識・道徳)が優れる(理想的な)人も、普通な人も同じ人である。その差はそれらをどのように修養したかである。つまり、人格が優れている人もやはり人であり、その本能は自分と同じになる。すべての物ごとの道筋・ことわり・道理は、私たちの心に自然に備わっていて、本能として自分自身の心の中に求められる。だとしてみれば、誰もが同じように成長して然るべきであるが、結果は、はっきり分かるほど違ったものになる。これは植物が気候風土や、管理(肥料、除草など)の仕方によって育ちが違ってくるのと同じことである。特別の例外を除いては、生まれた時は誰でも本能は同じで、人の本能も環境(家庭・職場)によって変化する。努力しない人は、言うまでもなく問題外である。努力し続け、やり通すことで優れた・立派になる人もいれば、諦めてなれない人もいる。家庭や学生時代、社会に出てからの努力や毎日のよい習慣によって差がつく。そう考えると、よい習慣を指導し、身につけていくことで立派な(理想的な)人に育てられることになる。それでは、一体どのような教育、習慣が正しいのであろうか。

 現代での教育では、たびたびに個性を伸ばすことだけが大切であるといわれている。しかし、人格の支配を受けていない個性というものは、道徳・倫理観を無視して暴走しがちになる(才能があるのに、人格がないと暴走して手がつけられない存在になってしまう。よって、才能は人格を頼みとするものである)。そのため、まず人格の支配を受けなければならない。個性とは所詮「私」であり「個性を伸ばす」となると「私」が欲しいままに伸び広がってしまう。ただ単なる自分本位・利己的な考えが横行して、道徳、倫理観が育たないことになる。これでは自分中心主義を促すことになる。本当の意味で人を育てるのであれば、最初に個性を伸ばすのではなく、人格形成に役立つ・人格が高められる教育をする必要がある。

 入社の際、学業の成績や採用試験の得点の差がある。あるいは学歴差があったとしても、それは実質的に大きな差ではない。差があるとすれば、心・魂を磨くことが大切と受け止められるかである。それを社会・会社に結びつけるならば、周りをより良くしていくために、自分を犠牲にしてでも自分の力を最大に発揮することを喜びにできるかになる。そのような習慣を身につけることを惜しまない人は、他の人に一歩先んじることになる。(ねら)った方向・道筋・目標から外れない限りは持続的な成長が可能となる。したがって、あらいの人間力が高められる教育を行うことが先決となる。それには教える人が、あらいの人間力が高められる労力(努力)を惜しまず、体得しようとしていなければならない。その後ろ姿で伝えながら、仲間と運命(人生・仕事の苦楽)を共にする。仲間の置かれている家庭環境・経済状態・人間関係などをよく知る。その上で、正しい(理想の)未来を共に考え、自身でやろうとする気持ちを起こさせることが大切である。この関係は切っても切れないようなもので、仲間の心の拠り所でなければならない。志ある人なら、現在の甘えを許してくれる喜びよりも、成功の喜びへ導いてくれる今の厳しさを選ぶに違いない。

 組織の活性化と人材育成を突き詰めると、仲間に〝経営の自由〟を与えるということになる。それには、あらいの人間力を高める(志を掲げ、強固にする)ことができるか否かが分かれ道になる。この努力は、10年経ってからはっきりと表れてくることから、急いではならない。しかし、10年経って気がついた時には手遅れになってしまうものでもある。それらを踏まえて、最も大切なのは本人の自覚であるが、上司、先輩の指導教育によっても差が生じることも心しなければならない。

 あらいの人間力は、すべての物ごとにわたっている。人生を歩む(商売・経営・仕事をする)上で魂・心を磨くことにため、あらいの人間力を人材育成の根本としている。

世の中に役立つ人に成長するという願望を決して崩さない

 若き日に、心に刻むべきことがある。それは「世の中に役立つ人に成長するという願望」を決して崩さないことである。

 若い時とは、「下積み」の時だけではない。組織の最下層にいる時、組織というものの舞台裏が見える。自分本位な上司の姿(顧客に対して不誠実に接する姿、部下・後輩に対して操作主義を示す姿、自分の気分次第で部下・後輩に接する姿)から陰の世界を知る。自分本位な状況において、人というものは輝かない。そういった側面が、自分の中にあることを学ぶ。一方、周りをよくしようとする上司の姿(顧客に対して誠実に接する姿、部下・後輩が一人の立派な人として成長できるようにする姿、部下・後輩の心を深い思いで支える姿)から光の世界を知る。周りをよくしようとする状況において、人というものは輝く。その素晴らしさが自分の中にあることを学ぶ。

 このような社会・組織・人の裏と表の体験を通じ、見たくない影の現実だけを知って(受け取って)しまった場合、所詮、ビジネスはお金で動く。人は、一皮剥けば、皆同じ。社員は、組織の歯車だからと口にする。この人たちは、厳しさと悲しさや寂しさから輝きが失われた人間観を抱くようになる。そうして「世の中に役立つ人に成長する」ことを崩してしまう。そうならないためには、社会・組織・人の裏を見た時であればこそ、光の現実も知って(受け取って)、「いつか、この時を懐かしく振り返ろう」と心を強くもつことが重要になる。それでも、そこからが、世の中に役立つ人に成長することを崩してしまうか、崩れないかの本当にギリギリの勝負になる。崩れてしまったら、そこで立派な(素晴らしい)人生を歩むことも知らずに終わってしまうことになる。しかし、世の中に役立つ人に成長するという願望を崩さず、着実に前進することをあきらめず続け、よい未来が見えるようになる。現在も希望をもって問題を解決し続け、それらが喜びと感じているよう成長できているならば、本当の強さを身につけていることになる。人の可能性を信じる豊かな心・何によっても揺らぐことのない心を身につけた人が、世の中に役立つ人に成長できるのである。

 この時が最も豊かな学びの時代であったと思える時を信じて「学び・歩み続けていこう」と思い定めるべきである。なぜなら、陰だけでなく光(社会の眩しさ・組織の輝き・人の素晴らしい姿)があることをしっかり見つめ、あきらめず人生を歩むことで、若き日の学びが糧となる時代がくるからである。歳と経験を重ねて人に教える立場になった時、若き時代に社会・組織・人の裏も表も見るべきものは見て、そこから真正面から向かい合い、格闘(周りをよく)したかが深く問われる。その時、若い日に素晴らしい深い人間学と人間観を身につけたと心の中で、答えられるような人に成長していただきたい。

部下・後輩の人生を預かる責任をもつ

 組織の成果に責任をもつ者(経営者・上司・先輩)が、「部下・後輩の人生を預かる」とは何か。その言葉には、深い責任がある。
 まず、部下・後輩には「生活」があり、家族がいるならば、その「家族」の生活もある。その人たちの生活を支えられるようにする責任を自覚しなければならない。そして、私たちは上司と部下・先輩と後輩として一生涯歩めればいいが、すべてがそのようにいくわけではない。それらを理解する時、どれほど愛着・深い縁を感じる人でも、必ず巣立つ・わかれの時がくる。よって、組織の成果に責任をもつ者は、自らの力で、立派な人に育つような流れ(よい習慣)を根づかせる責任があることを自覚しなければならない。

 たとえば、人生・仕事で困り果てる(貧しさで生活に苦しむ・将来苦しむであろう)問題に直面し、重要な意思決定が求められる時、自分だけに心が向かってしまう(自分だけにどう影響するかを考える)と視野が狭くなる。結果、どうしようと心が萎える(自分・仲間の力を最大限に発揮させることは叶わない)ため、責任を果たせない。対して我が子からはじまり、部下・後輩・その子どもにも、将来立派な人に育って欲しいと考え、その人たちの人生を背負い「ここで挫けることはできない」と自ら精一杯に力を尽くす。そのように問題に挑戦する場合は、思慮が深くなり、勇気が湧き、直観力や洞察力が生まれる。そうして、決して諦めない忍耐力も養われ、自分・部下・後輩の力を最大限に発揮できる。結果、目の前の最も難しい問題を解決でき、責任を果たすことになる。これらが、お互いの将来にどう影響するか考えなければならない。部下・後輩によい影響をあたえるためには、まず自らよい手本となり、育てる覚悟・信念をもって、問題を解決し続けていかなければならない。そのような姿を見て、部下・後輩は目を醒まし、自分の道を歩みだすことになる。それゆえに、お互いが人として大きく成長するものである。

 これらのことは社員とアルバイト、男女との間にも明確な区切りをつけないとする。本気で「育てよう」と同じ水準の厳しさで接し、それぞれの素晴らしい成長の可能性を認め、その可能性を無条件に信じ、持続的な成長ができるような遠く・長い道のりを共に歩んでいきたい。

後に続く者の成長を支えるには、導く者が成長し続けなければならない

 部下・後輩は、自分の上司・先輩(子供は、自分の両親)の後姿から、大切なことを学ぶ。その大切なことが何かを知っていなければならない。

 人と企業の持続成長という高き山の頂に向かって、登り続けることを喜びとして成長する「導く者」(上司・先輩・両親)の後ろ姿を見た時、「後に続く者」(部下・後輩・子供)は、なぜ、遥か遠く、高く聳え立つ山を目指すのか。困難な道を歩み続ける中で、深い喜びを得るのか。言葉を超えて深く学ぶ。そして気が付けば、成長したいと願い、その山の頂を歩みはじめる。

 しかし、このことは、恐ろしいことを意味していることに、気づかなければならない。導く者の成長の限界が、後に続く者の成長の限界となるからである。すなわち、導く者が、低き山に登っただけで満足してしまったならば、後に続く者は、それ以上の高き山に登れない。だから、導く者の責任は重いことになる。導く者の器量の大きさが、後に続く者の器の大きさを定めてしまう。たとえば、導く者が、後に続く者に対して人生を語る。後に続く者は、素直に話を聞いているが、語っていることは、器の小さな(自分は高き山に登ったという思い込みの)人生論になる。このような導く者の下で、後に続く者は成長できない。

 後に続く者の成長を支えたいと思うならば(支えるための条件は)、まず、導く者が成長すること。本当に成長したいと願い続けていることである。

〖注意〗後に続く者のため、導く者が立派な人物であるに越したことはないが、必ずそうである必要はない。もし、立派な人でなければならないことを条件とするなら、ほとんどの人が道半ばである。それは仕方がないことであるため、自身の未熟さを自覚することが大切になる。自分は未熟だからこそ、少しでも歩み続け(成長し)たいという強い願いがあるかが問われることになる。

危機感を常にもつ

 危機感にさらされてこそ人、企業体質は強化され、創造力が培われるものである。よって、このままではいけないという危機感から、自分の力を最大に発揮し、創造していかなければならない。しかし、好調になると得意になり、それが続くものと思い込む。ここから安易な考えだけ浮かんできて、危ういことを忘れた頃に災いが降りかかることになる。過去の成功から安心感に酔って、昨日までと同じことをやり続け、明日がよい日になると期待していることは、狂気ともいえる。そのような安易な満足は、創造力を妨げる依存心ともいえる。それが、将来の成功を妨げると心していただきたい。

 危機感を常にもっていれば、安易な(たやすくできる)道を選ぼうとすることはない。経営・人生にしても楽観だけの中から強固な基盤は生まれないものである。

 チャールズ・ダーウィンは、「生き残るのは、最も強いものでもなく、最も賢いものでもない。最も速く変化に対応できるものである」と述べている。

感謝の心を磨く

「大切・もったいない」とは人、物やお金、時間などに対して感謝していることで、過去にそれらがないために苦しんだ人でないと「感謝の心」は出てこない。

 たとえば、人がずっと居てくれる、物は買えるのが当たり前と思っている人には分からない。人が足りなくなると大切といい出し、人が足りてくると粗末にする。

 物が不足してくると、もったいないといい、物が足りてくると、残したりしても(使えるものまで捨てても)省みない。そこには有難いという感謝の念などない。

 すべてお金を出せば解決できると考えるようになると、人、物の有難みが分からなくなり、人の苦労など考えないため有難いという気も起こらない。「大切、もったいない」という有難い気持ちは、大きいから、高価だからでるものではない。どれほど少なく小さいものでも、「大切、もったいない」のである。この「大切、もったいない」という有難い気持ちは、何不自由のない生活になっても消えることはない。お金を出して買うからもったいないというなら、お金持ちになれば消えてしまうわけでもない。それは、感謝の気持ちから出たものであるからだ。貧しいことと富んでいることで感謝の念が上下することはない。

 近年、資源保護、環境悪化などの見地から、廃棄物の処理方法の見直しが叫ばれている。これらにしても、経済や衛生面から訴えることも必要だが、「もったいない」という有難い感謝の心を徹底することも大切な一つになる。

 この話と同様に企業も、一人ひとりの感謝の念も、顧客に通じるだろう。心からお客様に対する感謝の真心があれば、百回頭を下げるに勝るものである。お互い(上司・先輩、部下・後輩)に対し、感謝の誠があれば、強靭な絆になる。上役の中には、部下をこうしてやった、誰々のこういう面倒を見たなどと、部下にしてやったことだけをいっている人がいる。これとは逆に、部下にしてやったことは一切口にしないが、部下にやってもらったことだけ話す人がいる。この二人は第三者が見たらどう評価するだろうか。与えてやったという人よりも、与えてもらったという人の方が高く評価されるだろう。前者は見てやった感謝を求めているのに対し、後者は求めず、かえって部下に感謝しているからである。

 感謝の心(気持ち)が篤い人には、なぜそのようになったのか、いろいろな理由が考えられる。しかし突き詰めると、その人の人格、奥ゆかしさによるのであって、その人には温かい血が流れていることになる。これが人間味(人の魅力)、つまり人望となっていく。そのような人を惹きつけるものが、感謝の心と考えられる。立派な仕事を成し遂げ、あわせて世間的な名声を得てしまえば、昔の恩など忘れ去ってしまうものだが、小さな恩まで恩として感謝しているところに人情の美を見出(みいだ)すのである。

 感謝の心をもつことは、自分の心を平和にする道である。感謝の心を徹底していくと怒ることがなくなってくるし、不味(まず)いものも美味(うま)く食べられるようになる。つまり人格面・精神面を磨き高めるためには、感謝の心を磨くことが必要不可欠なものになる。何ごとも感謝の心で受け止める人は、厳しく叱られても、自分の向上のためと考える。対して、その心のない人は、()らしめのために叱られた、憎くて叱られたと考える。将来これが大きな差になる。感謝は人格形成に欠かせないことを知るべきである。

 松下幸之助も「感謝」についてこう述べている。

 以前のことになりますが、からだの調子が悪かったせいかもしれませんが、多少心労をおぼえ、なんとなく心寂しいような感じをしたことがありました。そこで、友人に「どうも自分は最近、なんとなく寂しくて物ごとを悲観しがちになるのだが、これはどういうわけだろうか」というと、「君は少し憂鬱病(ゆううつびょう)にかかっているのとちがうか」と、こういう話です。「それはなぜだろう」とさらに聞いてみると、その人は「その原因は、きわめて簡単や。君は喜びを知らんのや。有難さを知らんのや。いいかえると感謝の念がないから、そういうような寂しさに(おちい)るんや」といわれるのです。

 私も静かに考えてみますと、確かにそういう点がありました。〝これは自分の見方が誤っていた。喜ぶべきことに対して憤慨(ふんがい)してみたり、いろいろ煩悶(はんもん)して心身の働きを弱めていた〟と反省したわけです。そして自分の見方をもっと大きく広げなければいけない、自分の心を正しく建て直さなければいけないと考えたのでした。

 志とは人から与えられるものでもなく、自分の心で強く思うことであり、そこに私利私欲があってはならないもの(道理にしたがって行動することで、自分の心中に生まれた利己心を自ら克服しようという気持ち)である。また、個人を超え、周りの人・社会・時代に影響を与えるもので、厳しい未来への挑戦・将来まで見通した大規模な計画ともいえる。

 厳しい未来に挑戦し、お客様の利便性を追求する中で、仲間には、社会に役立つ立派な人に育ってくれるだろうと大きな期待を寄せている。そのような「人と企業の持続成長」という理想の風土、文化は、生半可な気持ちでは創れない厳しい道のりである。しかし、一生を懸けて取り組む価値のある仕事だと実感している。人生における大きなテーマは「人はいかに生きるべきか」だといえる。真剣に生きた人のみ得られる境地(きょうち)が必ずある。これからも私の人生を懸けて、この道を喜びとして追求していく。仲間も覚悟をもって追求していただきたい。

『論語』に「三軍(さんぐん)(すい)(うば)うべきなり。匹婦(ひっぷ)(こころざし)(うば)うべきからざるなり」とある。これは【堅固な城壁や大軍に守られてる総大将(指揮官)でも、奪おうと思えば奪える。それは人が守っているから奪う方法は必ずあることになる。一方たった一人の目立たぬ男でも、生きることに真剣に向き合った時、湧き上がってくる思い、その胸・心の中に秘めた志は奪えない】という意味である。

「人は何のために生きるのか」を探す

 そもそもどんなことに関心があるのか分からない。漠然と将来への不安や迷いなどを抱えている状況であっても、あらいの仲間として『あらい学』を共有・共鳴しながら、先見し、学び、実践・創意工夫する。そうして、気力・情熱を生み・溢れるように仕事をしていく。今の自分の状態をしっかり見極め、仕事が楽しい(気持ちのよい)ことに気づかなければならない。その中で「人は何のために生きるのか」という根本的な問いに真正面から向かう必要がある。たとえば「自分はどうしたらよいのだろうか」「どのような人に育っていきたいのか」「なぜ生まれたのか」「なぜ働くのか」「相手は何がしたいのか」「価値のある人生とは」と真剣に生きる意味や働く意味について自問自答する。そして、相手(会社・仲間・お客様・社会)・自分に十分気を向け観察し、その問い(心の底からの望み)の真に正しい答えを探し続けていかなければならない。その答えが求めるにあたって、気持ちが日によって変わる(ぶれる)のではなく、安定させることが重要になる。そのように修養することが、自分の力を最大限に発揮できることにつながる。

〖注意〗あらいの人間力を高める(人格形成)において、重要な要素がふたつある。

 ひとつは、人格を高める(心・魂を磨く)ことに情熱をもち、常に探求し続ける。

 もうひとつは、周りがよくなる(立派な)仕事をし、自身を磨き、人生を切り開く。そのための人生道場のような「修行」をする場所が、株式会社あらいであることを自覚することである。

まず、思うことからはじめる

 いきなり志を掲げようとしても難しいものになるため、人の行動の源、基本である「思う」ことからはじめることである。思うことは大きな役割をもっている。自分だけよければという思いを巡らせ続ける人は、その思いと同じような人になってしまう。反対に、思いやりに満ちた優しい思いを抱いている人は、知らずのうちに、思いやりのある人になっていく。毎日生活を送る中で抱く思いの集積が、私たちに合った境遇になる。それが人間性・人柄・人格をつくり出すほどに大きな影響を及ぼすことになる。もしくは、その人の運命をつくっているといっても過言ではない。

 そう考えると、私は不幸な運命のもとに生まれた人だと責めたところで、何の意味もない。その運命は、他人が押しつけたものでもなければ、自然がもたらしたものでもない。他の誰でもない自分自身の思いが創り出すものであるため、すべて(家族・隣人・仲間の関係など)が心の反映になる。立派な人が、そのようなことを言われている。しかし、思いにそれほどの力が秘められていると、私自身も完全に信じているわけでもない。それでも、実際には人生の結果・人・地域社会との関係など、すべては、自分の思いが根底となりつくり出しているものである。

 このような思いがもつ、優れた大きな力をあらわしているのが、現在社会の成り立ちである。なぜ、これほどまでに社会は発達したのか。それは、思いというものがもとになっている。人は誰でも、こうしたいという数々の理想(こういうものがあったら、こんなことができたら)を思い描く。たとえば、早く移動したい、便利にしたいという思いから、その思いを強くし、失敗をしながらも新しいものを開発する。そうして車ができ、自動運転ができる車へとなっていく。そういう物をつくりだす時には、頭で考え、研究しなければならないが、はじまりは思いつきになる。

志を掲げ、強固にする

 その思いつきから、関心がもてる(より高い成果や高度なスキルが求められる)環境に身を置き、仕事が楽しいことに気づかなければならない。そうして覚悟を決め、まずこうありたい・あるべきと思う「志」(万人のいくべき正しい道)を掲げることである。

 この志を遂げるために、気高く(強い純粋な美しい心で)、頭にも体にも浸透するほどの(一点に心を向けた・他のことは考えない)思いや願望をもち続け、厳しい未来に挑戦する。それが、人に喜んでもらうことになり、未来の可能性を広げてくれる。そのように誇り高いものにし、志を強固にしていくことが、本当に価値のある人生につながると確信している。

〖注意〗志を大きく立てるはのよいが、工夫、精密さを欠くため、準備を(おこた)って途中で挫折してしまう。度々変更して、本質から外れた取るに足りない事柄に(とら)われ、つい曖昧(あいまい)になり、志がどこへいったのか分からなくなってしまい達成不可能になる。これらのうち最も多いのが、困難の壁に突き当ってあきらめてしまうことである。また、困難も厳しさもなく、ましてや行き詰まることもないような志は、誰にでもできる優しいものでしかない。やり遂げたとしても小さなものしか得られず、どちらもそのような志ならはじめから立てない方がよい。「人のやれないことをやる」というのが立派な志といえる。

 人と企業が持続的に成長するために、志を掲げる。その志を軸にして強固にしようと前傾姿勢を取っていることが、『あらい学』に書かれているすべての大前提となっている。その姿勢がとれている場合は、年を重ねるごとに成長し、力を増していくことになる。そうでない場合『あらい学』が意味をなしていない。よって、その人は年を重ねてもあまり成長ができないことになる。もし志を掲げられず、その志を軸にして強固に育てられなければ「働く意義」で述べた、働く本当の意味を理解できないことに陥る。人生(仕事)をネガティブに捉え習慣化し、その環境を形成し、思考を定着させ、自身が抜け出せない状態である「生きていく、食べていくだけの消極的な働き方」になってしまう。結果、ふさわしい人物を求めない。欠点だけが目につく。任せられない。信頼できない。過去の過ちや失敗を根にもつ。責任追及を恐れる。自分の地位を奪うのではないかと心配する。小心で気が小さくて臆病(おくびょう)になる。他にも、さまざまな前向きではない困ったことに襲われるだろう。未来がそうならないように防いでいかなければならない。

慈しむ心で人を育てる

「慈しむ」とは、弱い人や自分より立場が下の人を大切にすることである。親から子に注がれるような見返りを求めない愛情・優しい眼差まなざしで接することで、大切に育てる・立派な人に育てることを表す。

 親は子を守り育てるため、細心の注意を払って見守る。病気になれば寝る間を惜しんで看病し、自身と同じように将来に対して心を(なや)ます。この誠・真実の心(言葉や行いにつくりごとがないこと)は知識・知恵のない子にも伝わることになる。慈しむ心の人は、厳格だが心の底にほのぼのとした優しさ(心の温かさ)がある。そのような人に、厳しくされても、抵抗を覚えず、むしろ愛の鞭として受け止める。常に慈しみを(そそ)いで可愛がる慈愛をもって接すれば、人は慕ってついてくるものである。このような慈しむ心があってこそ、立派な人に育てられるのである。

思いやる心と責任をもつ

「思いやり」とは、他人の心情や身の上などに心を配ること、その気持ちのことを指す言葉で、相手の立場になる・親身になる・その人の身になって考えることである。推察して気遣いをするなどの意味もある。思いやりの類語としてよく使われる言葉は、心遣い・思慮・気配りなどである。思いやりのない(自分本位な・心の底に冷たさがある)人は、いくら不都合などを隠そうとし(うわべを飾って表面を温かく見せ)ても、しばらくすると誰からも好かれず、相手にされなくなってしまう恐れがある。いかに思いやりのある人でもれ親しむことが難しくなる。

 組織をつくる時の根幹は信頼関係になる。構成するメンバーの信頼関係がなければ成り立たず、前に進めない。信頼関係を構築するために、その根底に他人への「思いやり」(相手の様子をしっかり観察し、相手の立場・気持ち・親身になること)が重要になる。一向に思いやりが感じられないような人を信頼できるかどうかを考えるとわかる話である。しかし、思いやりだけでは、組織が甘くなりがちになる。よってもう一つ大切になるものが、相手の将来まで考えることから生まれる「責任」になる。これら思いやりと責任をもつことは、言い換えると柔らかさと厳しさになる。この両方に絶対的な自分の役割があると自覚しなければ、人と企業が持続成長するための信頼構築はできない。

 商売の秘訣は何かと聞かれても、相手への「思いやり」と「責任」をもつことになる。この心が、企業が関係するすべてに及ぶのであれば、離れた所の人々も集まってくるようになる。ユーザー志向・消費者本位・お客様は神様といった理念から、便利な行き届いたサービス(機械・器具・パソコン・カードシステム)に進歩している。すべて「相手の様子をしっかり観察し、相手の立場・気持ちになって、将来までよく考える(親身になる)」ことから出たものである。つまり商売の基本は「思いやりと責任」から生まれた新製品といえる。もし、基本を「利を得る」とすれば、開かれる将来も極めて狭いものになる。

 この思いやりと責任をもつことは、どうして、それほど相手の心を自分に引きつけて影響を与えるのだろうか。お互いに温かい血が通うというように、悲しみも・喜びも・苦しさも・楽しさも相通じるからである。そこには心の温かさを(さえぎ)るものもなければ、不純なものもない。純粋な心の温もりが相手の心にしみじみと感じる。この温かさは相手に通じるものである。

〖注意〗苦労から得た人の情けで、大勢の人達から寄せられる期待・信頼を集めて成功した人は少なくない。しかし、他人に対する思いやりの気持ちが過ぎて身を滅ぼした人も少なくないのも事実である。苦労重ねた人は、人情に(あつ)く、過ちを犯すことが多い。人の立場を察することが早く鋭い。悲しい話を聞くと、我が身として同情する(相手の立場になる)。これは「思いやりの心」に通じ、人を育てる人にとって必要なものになる。しかし、行きすぎると親切のつもりが害となることも心得ておかなければならない。それを防ぐには、相手の将来まで考えることから生まれる「責任」をもつことである。それが相手、自分のよい未来が見えることにつながる。それらは、思いやりと同じくらい大切であることを心して欲しい。

良心を偽らない・誠実な心をもつ

「良心」とは、誰もがもつ本能で、道徳的な善悪をわきまえ、行動するためのものである。自身の中におのずから存在する社会的な価値観(規範意識)に照らし、ことの善悪を測る心の働きである。
「誠実」とは、物ごとに私利私欲がなく正直・まじめに向き合う気持ち。人や物ごとに対して真心があり、うそいつわりのないまじめさがあることになる。

 それらを踏まえて、良心を偽らない・誠実な心(真心)とは、道徳的な善悪を判断基準に私利私欲に流されず、約束を守る人である。このように行動をする人は判断を誤ることがなく、多くの協力者が集まる。したがって「良心を偽らない・誠実な心」は、私たちが本能として生まれた時からもっている宝物といっても過言ではない。

 志を遂げるために、この「良心を偽らない・誠実な心」を注力して(使って)頂きたい。

目の前の最も難しい問題を解決する

 目の前の最も難しい問題とは、私たちが厳しい未来に挑戦(お客様の利便性を追求)をした時、現れるものである。

 これは、物ごとのボトルネックとなる会社全体・仲間共通の困難な問題である。このため、よくしようと前傾姿勢をとっていない(甘い考えの)人から見た場合、目をそらしたい・放っておきたい・避けて通りたいことになる。その結果、放置する期間に比例して重大性を増すことになり、はじめよりも難しい問題として、誰かがこの問題に立ち向かわなければならないことになる。もし、この問題に立ち向かうものがいなければ、会社は時間が経つにつれ弱体化し、潰れることになるだろう。そうならないため、自分の最大の力を使って、目の前の最も難しい問題を解決し続けることが大切であること十分納得する。それが、志につながり、強固になるように、仲間を導いていかなければならない。

〖注意〗物ごとに熱中することは、極めて貴重なことである。しかし、ひとつしかない心を一度に二か所に使おうとすれば、知識・知恵・見識も力も二分されて、ふたつとも失敗する可能性が高まる。こうしたことから、会社に最も影響を与えるもので、実現可能なことに集中・熱中することが肝心である。

自分の限界を超えていく

 先に不可能を口にする者は、理想論という文句ですべてを片づけてしまうが、理想論とは実行可能なことを考えることだと思う。そのように考えると、人の社会に不可能はないはずである。

「老いてますます盛ん」(年老いても、若い時をしのぐほどに意気に満ちている)という文句もあるが、老いには「肉体的な老い」と「心の老い」のふたつが考えられる。心が若ければ、年を取った人も青年のうち。心が老いていれば、青年でも年取った人である。将来まで見通して大きな志も立てず、よく「それは理想論だ」「困難、不可能だ」と先に考え、片づけたがる人も居るが、これでは人を率いることも不可能になるだろう。将来まで見通して大きな志を立て、可能性を信じて挑戦する人には、年を取った人でも、部下は心から尊敬して理想の道に沿って進む。要は、困難や不可能を(なげ)かず、可能性を信じる心が大きいか小さいかである。

 そのことを踏まえて、私は「限界への挑戦」を生涯堅く信じて守るものとしている。これは「自分の能力では、この程度が精いっぱいだ、これ以上のことは不可能」と決めつけてしまうのをやめることである。

 たとえば、会社もこの程度までしか伸びないというように上限を決めて、それ以上は不可能と考えてしまいがちである。この不可能という考えを取り払わなければ、よくすることはできない。言い換えれば「当たり前を更新する」ことになる。できないことが当たり前、と考えているようでは何ごともできない。「大学を出ていないのだから、この程度が当たり前」「親から財産を譲られていないから、お金持ちになれないのは当たり前」「忙しいから、本が読めないのは当たり前」というような「当たり前」は、口にするのさえ恥と考えなければ、立派な人になれない。

 なぜ、私が限界に挑戦することに気づいたか。その答えは簡単である。会社を立派にして価値のある人生を歩んで、年々よい年にしていくためには、必要なことだったからである。社会は厳しく、自分は、もうこれ以上はできないと泣きついても何もしてくれない。自分の限界を更新しない限り、生涯にわたって背負わなければならない恥を残すことになる。これまでに何度か、もう無理かもしれないと考えたが、その度に何とかなっている。自己の限界を更新することは困難だが「できるようにする」と成功の可能性を考えるようにしている。この不可能を可能にすることで、幸福を目指していくのみである。

 不可能を先に考えると苦になるが、成功の可能性を先に考えると楽天的になれる。楽天というと、自分の境遇を天の与えたものとして受け入れ、人生を楽観することである。それだけではなく同時に不可能の壁は破れると信じ、不可能な理由を()むことも大切になる。それには、自分を偉い人と思わず素直に学ぶ・(つつし)んでいかなければならないことになる。

縁を感じる 

 現在この日本だけでも、一億を超える人々が生きている。しかし、自分の生涯において巡り会える人はその中でごく一握りである。仲間(上司・先輩・部下・後輩)においても、社会には、数ある企業の中で、なぜこの職場で巡り会えたのか。これらは、深い縁に導かれた巡り合わせ(人生の真実)なのだと私たちは気づくべきである。それを単なる偶然と思う人は、無意識に、仲間に興味をもたず、関係も希薄になる。対して、深い意味を見出す人は、仲間の人生にも深い思いをもち、密度の濃い関係になる。したがって、単なる偶然のように見えるかもしれない「出会い」においても、必ず深い意味があると考え「深い縁」を信じなければならない。

 たとえば、上司と巡り会い、日々の厳しい指導を受ける。心が(きし)み、少しずつ「利己主義な考え」の殻が壊されていく。仲間と巡り会い、いつも心と心がぶつかる日々を過ごし、互いに成長していく。互いの角が取れ、少しずつ「利己主義な考え」が少なくなっていく。このような縁の中には、相性のよい人だけではなく、悪い人との出会いもある。素直に話を聞こうとしない人・人間関係で問題を起こす人・気分によって感情的にあたる人になる。そのような尊敬できない人との心の摩擦や葛藤、それでも、あきらめず乗り越えてきた日々があったからこそ、私たちの成長(鍛えられる・磨かれる・しなやかになる)につながったのである。もし、自らの成長の道を振り返るならば、尊敬できない・相性の悪い人との出会いもまた、素晴らしい出会いであったことに気づく。

 それらの人間関係を含め、仕事において直面する「苦労」や「困難」も偶然のように見えて、一つとして偶然はなく、必ず深い縁がある。単なる偶然と思う上司・先輩は、無意識に、部下・後輩の成長の機会と働き甲斐を奪ってしまう。対して、深い縁を見出す上司・先輩は、部下・後輩に成長の機会と働き甲斐を与える。なぜなら、私たちの人生における「苦労」や「困難」は、できるならば避けて通りたい「不幸なできごと」ではない。それは、私たちの可能性を引き出してくれる「素晴らしいできごと」に他ならないからである。

 それらの体験がどれほど私たちを深め・広げ・鍛えてくれたかに気づく時、成長させてくれたと感謝できるようになる。そう解釈できる力が人というものの素晴らしさである。しかし私は若い頃、そういった「縁」の深い意味(人が与えられている役割)が分からなくて好きではなかった。何十年かの歳を重ねた今、このことの素晴らしさが少しは分かる。それは一人の未熟な人が成長できたささやかな証でもある。

 このように考えると、自分にふりかかる一切のできごとは、秩序がめぐり、縁とし起こるものである。そのため、自分に対して起こるすべてが必然であると共に、自分にとって最善なはずだと考える。そのように心がけ、(こば)まず、受け入れ、そこに隠されている意志を読み取らねばならない。与えられた不都合な(辛い・失敗)境遇を成長する機会と受け止め、感謝し、くよくよ(悩んだり)しないで人生を楽観する。ゆえに、天命を楽しむという境遇で、何ごとも積極的に挑戦するようでありたい。

 この考え方・思想に、何か証明できるものはない。しかし、この「縁」を信じられるか、否かでその人の歩みがまったく違ってくる。

逆境は楽しい

 楽しいことに入りきっている時、ふと心配ごとが浮かんで熱が冷める。対して、悲しみに沈んでいる時、ふと希望の光を見出して心を躍らせる。喜び、悲しみというものは人の心に同居しているものである。

 私もこれと同じような気分、状態によって、困ったなと苦労を感じる時もあれば、あまり感じない時もある。どちらの状態でも逆境(目の前の最も難しい問題)にどうやって取り組もうかと真剣に考え、自分の力を最大に発揮している内にいつか光の先に達し、本当に価値のある人生にしていくという楽しみを思い浮かべ、逆境を乗り越えてきた。

 注意深く自分の心と周りの状態をよく観察し・考え・悩み、危機からの脱出に努めている時、本当の知恵が出てくるものである。しかし安心している時には、倹約を忘れ、お金・物・時間などに対する「もったいない」という気持ちと知恵・頭脳貯蓄に努めることがなくなる。そして思慮が埋もれ、士気も衰え業績は低下してしまう。苦しいと薬になり、甘いと毒になるようなものである。

 天が人に重大な務め(志)を課す(果たさせようとする)時、まず心を苦しめる。それから体を疲れさせる。これは精神を奮い立たせ、努力を(うなが)すためのものである。このようにして天は人を根本から強くさせ、今まで不可能だったことを成し遂げさせる。物ごとは、思い掛けない偶然や、転がり込んでくる幸運で成し遂げられるものではない。天が与える試練に希望をもって耐えた人のみが得られるものである。そのため、志ある人は天の試練を待たず、進んで(苦難に)挑み、乗り越える努力を惜しまない。「苦労は買ってでもしなさい」といわれているが、大きな志を抱く人にとってはこれほど安いものはない。物ごとが順調に思い通りに運び、企業がのんびり事業を行っているという時は、楽しむべき時ではない。本当の心(志)をもってすれば、むしろ逆境に対処している時の方が楽しく、おもしろいものである。

逆境に立ち向かうことを忘れてはならない

 もし、富も地位もある・お金持ちで身分が高いという時でも、貧乏だった時を忘れてはならない。誰しも、貧しくて身分が低いことを繰り返したくはない。むしろ貧乏の苦を味わった人は、それを忘れ去って、最高の(富と地位が到達することのできる)境地に入りきってみたいものである。また、苦しみの反動で、ぜいを尽くしたい気にもなる。更には自分を厳しく引き締めたあとに自由になるような解放感などは、いずれも昔の貧乏を忘れさせるものである。

 うまくいって調子に乗って、目の前の最も難しい問題に立ち向かうことを忘れてしまうと、身を滅ぼすことになる。それは、人を創る栄養剤のようなものである。立ち向かうことを忘れると、たちまち栄養失調になってしまう。

十の才能の人が二十の仕事を与えられることを名誉と考える

 好機を待望しているような人は、「好機なら、何時きてもよい。こなければ進んでつかむ」という気概がある。志のある人は、目つきからも好機を引き出そうと考えていることが分かる。したがって、上司・先輩も、好機を渇望している人に「物ごとの起こるきっかけ」を与えなければならない。

 たとえば、私に挨拶はしてくれるが、顔を見ない人と目を見る人がいる。目を離すような人は、私から何か注意されたり、命令されたりするのを避けているように見える。何か見逃してほしいと思っているように受け取れる。私の目を見つめるような人は、好機を待っているように見える。

 このような人に出会うと楽しく仕事ができる。目つきや顔つきだけでその人のやる気というものは(うかが)えるものである。伸びる人というものは、ことの善し悪しにかかわらず、自分に関わってくることは好機と考える。その中には、取るに足らないものもあれば、それに染まってはならないものもある。悪は悪なりに反省し、先の糧とする。

 このようにすべてを好機と考えることは、自分を励ますこと、更に多くの好機を掴めるようにもなる。十の才能の人に一の仕事しか与えられないとしたら不満だろう。十の才能の人が二十の仕事を与えられるとしたら名誉になる。名誉と考えるから意欲も出る。よって、ふさわしい。当然であると考えるべきである。

自分の仕事は自分で創っていく

 自主性とは「やるべきこと」が明確になっていて、人に言われる前に自ら率先して行動することである。自主性をもって仕事をするとは、「同じやるなら、何々しなさいと言われてからやるのでなく、自分でやろうと思ってする」ことになる。
 主体性とは、ある目的のためにどうすればよいのかを自分なりに考えて行動することを意味する。つまり「誰かに言われたからやる、指示されたから動くといった、受動的なものではなく、ことを成すために自らが考えて行動する」ことを意味し、責任も伴(ともな)う。主体的に仕事をすれば、失敗しても当然、本人の問題として捉える。そして、次はどうチャレンジして成功させていくかを本人が考え、行動するようになる。この積み重ねが非常に重要である。

「やらされている仕事が嫌い」ではなく「自分で考えて行っていく建設的な仕事」を誰よりも貪欲にすべきである。

「仕事をしていたら、その内よくなるだろう」や「仕事によって、自分の人生はどうなっていくのだろう」といった発想で取り組んでいる人は多いように思うが、それではどうすることもできない。「仕事によって自分の人生を切り開く」という意志が見えてこなければならない。「自分の仕事は自分で創っていく」と強い意志をもった人は、早く一人前になり、活躍をすることにもつながる。

境地に達しようと余裕をつくる

 人にはそれぞれ事情や都合があり、悩みがある時には自分のことで精いっぱいになってしまうものである。
 普段から自分本位な考えの人(自分のことばかり考え、自分勝手な言動や行動で周囲を悩ませるような性格)であるのとは別に、忙しい時などは誰でもこの状態に陥ってしまう可能性がある。一つのことに集中する時でも、なるべく相手を傷つけないように、言葉や行動には気を配らなければならない。余裕がないからといって、自分本位な考えの人になってはいけない。

 それを防ぐには、自身の人格形成に努める・自己修養する(知識を有して知恵を絞り、見識まで高め、品性(道徳的基準から見た性質)を磨き続け、境地に達することで余裕をつくる必要がある。それは、広く限りない地を歩み続けることになる訳で「これで十分」「終わり」はないのである。ところが普通の人は、少々常識を身につければ「しっかり身についた」として(おろそ)かにしはじめる。周りも「そこまでやっていない」と決め、やめてしまう。このように、これで満足と思った時点で、人の可能性は閉ざされてしまう。ある程度解決したとしても、もちろんそこが終わりではなく、その上を行く(前もって工夫する)よう常に進んでいかなければならない。

 これには、かなり高い水準の生き方が要求されていて、窮屈(きゅうくつ)な感じがするかもしれない。しかし、考えてみれば、当たり前の原理・原則を述べているに過ぎない。

 尊敬、親しみの心をもたれる人は優秀なだけではなく、その道の境地に達することで、心の余裕(大らかさ)をつくっている。そうすることで、客観的に全体像を見れる・予定外のことが起こってもうまく切り抜けられるなど、まさに臨機応変にことに挑める。余裕があることで仕事の仕上がりも違ってくる。それによって得た人格を拠り所とし、また周りがよくなる(立派な)仕事をする。そうして、自分たちの人生を切り開いていくこと(豊かな世界)を思う存分に楽しむ。そのように自由に動きまわれる余裕をもてたなら、素晴らしいことである。これこそがまさしく、私たちが求める姿である。

敬う・慎む・誠意を尽くす

 敬うとは、相手を価値あるものとして重くみる。人を尊重し、物ごとを注意深く行う、おろそかに(いいかげんに済ませたり軽く扱ったりして、まじめに取り組まないことを)しない。尊敬し、とても丁寧で礼儀正しくする。優れたものとして大切にし、高い敬意を払うことになる。
 慎むとは、度が過ぎないようにする。控えめにする。節制する。あやまちや軽はずみなことがないように気をつける。慎重にことを成すという意味になる。

 人を敬う心があれば、人から敬われる。自分を偉いと思わず、素直に他から学ぶような立ち居振る舞いで謙虚・謙遜を心掛ける人は「よくできた人」「頭の下がる人」と評価されることになる。しかし、「敬う・慎む」がすぎると卑屈になり、へりくだる。場合によってはへつらいと誤解される。その他にも、損して売るなどの譲歩は、商売知らずだと非難を受ける。また、腰を折り、道を譲っても、自分の利につなぎ過ぎてはいけない。それはかえって身の仇となることに気づかなければならない。

 名誉と利益を求めようとする心が出てくると、何か悪い計画を試しにやってみる心が起こってくる。それは徳を失うことになるため、敬う・慎む・誠意を尽くさなくて(緩めて)はならない。これらは徳の基本といえる。それらの心のもち主というものは、心の敵を追い払う魔除けともいえるものである。または邪心邪念というような心中の敵は()みにくい。よくない思い・道徳に反した不正な欲望という敵がいなければ、無防備な腹と背中から攻められることはない。これがその人の勇気につながり、信念を強くする。

 幾度も厳しい体験によって失敗し、反省し、磨いてきた人は、難しい事態を乗り越えられたのは周囲のお陰であるという考えが強い。そのためすべての人、ありとあらゆるものに対して感謝の念が強い。優越感に入りきって一人で満足して喜ぶ余裕や考え(種)がない。これが謙虚さとして、控え目や(つつ)ましい(素直に相手の意見などを受け入れる)態度が表れ、人を()きつける。常日頃から人を敬い、自分を慎み、誠意を尽くす人からは底知れない力を感じるものである。それゆえに、苦労してそれらを乗り越えてきた人は、過ちを犯すことも少ないものである。

順境の時は驕る心を抑え、逆境の時は嬉しそうな顔色で覆う

 上司・先輩が、心配ごとなどがあって気が晴れないようであれば、部下・後輩も、心を痛めるようになってしまう。それでは、希望を失わせ、士気を低下させる。上司・先輩の嬉しそうな顔色は、組織全体を嬉しそうな顔色でおおうことになる。それは、暗闇の中に将来の光を与え、士気を上昇させる(がっかりするような失望を希望に転じさせる)ものである。このため上司・先輩は、常に穏やかな・嬉しそうな顔色でいられるように努めることである。

 環境に恵まれ、会社の業績がよい時期は、嬉しそうな表情が心の中で包みきれず、溢れ出ている。逆境に陥れば気力を失い、心が痛んでいる顔色を表すなどは、逆といえる。順境(じゅんきょう)(うまくいっている望ましい状況)の時は驕る心を抑え、逆境の時は嬉しそうな顔色で士気の低下を防がなければならない。

自らの心の安らぎを保ち、世のため人のために尽くす

 自らの心の安らぎを保ち、世のため人のために尽くす。これらふたつはひと組で、はじめから終わりまで貫き通すことで、あらいの人間力は高められる。

 自らの心の平安を保つだけで、世のため人のために自らが尽くさない人は問題外である。また「世のため人のために自らが尽くす」にしても、ことあるごとにイライラし、不平不満ばかりをいって人と衝突している人が、世のため人のために尽くすことなどできるはずがない。

 人に安心を与えることは信頼を築くことになる。人に安心ではなく不安ばかり与えていては、信頼を得ることはできないものである。

 自らの心の安らぎを保ち、世のため人のために尽くせば、自ずとその輪が広がっていく。しかし、自分を顧みることなく、職場が気に入らないといって転職する。夫や妻が気に入らないといって離婚するが、次は最初よりも条件が悪くなる。よく思わないのは何よりも自分自身の思い方、受け止め方が問題なのである。外に平和を求めても無理なことを知らなければならない。

 自分の心をよく見つめ「自らの心の安らぎを保つ」と「世のため人のために自らが尽くす」をしっかり意識して修養する[知識を有し、知恵を絞り、見識を高め、品性(道徳的基準から見た性質)を磨く]ことが重要になる。

〖注意〗仲間、一人ひとりに立派な(世の中に役立つ)人に育つ責任がある。その責任を果たさなければならないという危機意識をもつ。感謝に報いるよう、相手によい影響を与えられる人に育っていかなければならない。

「整理整頓」を心掛ける

 整理整頓とは、乱れた状態から整えることを意味する。整理は、必要と不要なものとに分け、不要なものを取り除くことになる。整頓は、必要なものをいつでも誰でも取り出せるよう、秩序立てて配置することになる。そもそも管理できる分量を超えていたら、いくら整頓がうまくてもすべてに行き届かず、効果は望めない。そのため、まず散らかったものを整える順番も、はじめに「整理」、その次に「整頓」の順番になる。また、整理の『理』は、道理や理論などに使われる字で『物ごとの道筋』(道筋に沿うように整えること)を意味する。整頓の『頓』も整えるという意味で『正しい位置』にきちんと置くのが『整頓』である。つまり、『物ごとの道筋』に沿って『正しい位置』に整えることが整理整頓だといえる。前向きに整理整頓することで、仕事の「効率」を上げられ、環境がシンプルになり、頭の中・思考面がスッキリする。精神的に落ち着き、余裕をもたらしてくれるだけでなく、失敗も少なくできる。よって、時間的、経済的、精神的な効果がはっきりしてくる。時間を生み出すこと、やる気・意欲も上げることにつながる。また、安全な環境にできるという副次的な効果ももち合わせている。

本業に悪影響を与える私欲への熱中に気をつける

 自分の好きな趣味や娯楽に熱中したり、政治やサイドビジネス、株などに夢中になっていたらどうなるか。一方に熱中すれば、一方が疎かになるのが当然。そして、疎かになるものの多くが本業になる。好きであれば、一晩寝ずとも食わずとも苦にはならない。しかし、仕事以外の好きがすぎると、ついには身を誤ることになる。大体の人は、最初は自制が利くが、次第に熱中しのめり込む。人生に熱中は必要だが、的の外れた熱中には、十分気をつけなければならない。

公私混同を慎む

 公私混同は、細かいまたはわずかな問題として、取り上げる価値もないことから出発する。卑しい例が、経費や仕事の時間の公私混同である。最初は極めてわずかなものでしかない。したがって、社内の誰も気づかない。気づいたとしても、あの程度のことならと気にも掛けない。そうして、気に掛けながら行っていた人も、今まで経過してきた状態の中で、許されることだと思い込むようになる。回数も多くなり、ついには、これくらいするのは当然と考えるようになってしまう。悪いことをした(している)と感じるような不快感をもつ感情もなくなってくる。目に余るようになってから、社内のあちこちから、欠点やあやまちなどを責め咎める声が出てくる。自覚症状が出るようになってからでは、手遅れとなってしまう。こうなっては社内の口を塞ぐことは困難になる。こうしたことは話が伝わる間に実際にないことがつけ加わる。そうして大げさになって、伝わり広がっていくから、一のものが十にも二十にもなる。このようにならないように、私を含め仲間も一の公私混同もしてはならないものとする。

自らの情熱の燃やし、相手の情熱に火をつける人とつき合う

〇1.自らの情熱を燃やし、相手の情熱に火をつける方法も知っている。

□2.自らの情熱を燃やせるが、相手の情熱に火をつける方法は知らない。

△3.自らの情熱を燃やせないが、相手から火をつけてもらえる。

✕4.自らの情熱を燃やせず、相手から火をつけてもらえない。

✕5.自らの情熱を燃やせず、相手から火をつけてもらえない。更には、相手の火も消す。

 このように大きく分けて5つの型の人がいる。4・5の人とはつき合ってはいけない。時間の無駄になるからである。3の人は、2の人を目指す。2の人は1の人を目指していかなければならない。要するに、自らの情熱を燃やし、相手の情熱に火をつける人とつき合うことが大切である。

沿って溺れず

 世の中の風俗・習慣を踏えながら、よい習慣を身につけ、悪い習慣が身につかないようにするのが、立派になる人である。しかし、自らを立派な人と考え、ひとりかけ離れた行動をし、高く目立つ地位を望むようでは人に嫌われるものである。

驕ってはならない

おごりとは、得意になって高(たか)ぶること。わがままな振る舞いという意味になる。
人生で最も害になるのは、驕りの一点に尽きる。

 人の病気は、体がもろくて弱い時に多く表れるものである。それと同様に、大勢の敵が力に訴え、一斉(いっせい)に立ち上がってくるのは、自らに誇りを覚えている(物心共に勢いがある)時である。物心共に盛んになって、出てくるものは、実力以上に自分が優れていると思うような・得意になる心である自惚(うぬぼれ)。高ぶって人をあなどり見下す態度などの傲慢(ごうまん)である。そうでなければ身のほどを越えた、大きな野望になる。こうした時の判断や計画は、結果において誤ることが多いものである。そこで自惚れ、傲慢、野望が出てきたら、一歩退くことを考えなければならない。

 これらは、出そうとして出しているものではない。時期によって出てくるものである。たとえば、会社の業績がよくなってくると起こる。いかにも自分一人の力で業績がよくなったかのように驕り高ぶる。このことは場所や人を問わず自慢したくなるものである。更に、これが悪化してくると、人を人と思わなくなる。自惚れ、傲慢というものには限度がない。事実に自惚れている間はよいが、それ以上は嘘になる。嘘に嘘を重ねていくから信用を落とし、誰も相手にしなくなる。周りの人が我慢できないのは、周りの人に対して、これまで大切にしてきた注意(教え示すこと)まで変わる。そして、自分の手腕を見ろといわんばかりの話になり、肩で風を切るようになって、態度が別人のようになることである。

 次に、傲慢は忠義に篤い人を遠ざけるという致命的な結果を招くことになる。傲慢な人は、自分の力だけでその座にいるものと思い込んでいる。最も偉いのは自分だと信じきっているから、仲間、部下など一人前とは考えなくなる。それが更に悪化すると部下の言葉など信じられなくなる。自分の考えの方が勝っているからと聞く耳ももたず・傾けるべき耳まで冒されてしまったようである。我が身の不利をも顧みず直言してくれた仲間まで追い出すことになる。つまり、人に対して、驕り高ぶっていれば、必ず災いが身に降りかかってくる。

 栄えたり、衰えたりすることの原因の多くは、驕りの一字にあると言っても過言ではない。このばかばかしい、くだらないことを自ら抑えるにはどうしたらよいか。もちろん意志の問題であるが、現実は恐ろしい(今まで続いていた状態が損なわれる)ことを早く知るべきである。得意の時の(いまし)め(過ちを犯さないようにこらしめること)は、自慢の鼻を折るためのものであると肝に銘じておくべきである。

諭してくれる・諫めてくれる人をもつ

 さとすとは、部下・後輩に物ごとの道理をよくわかるように話し聞かせる。納得するように教え導く意味である。いさめるは、上司・先輩に対して、改めるように(その過ちや悪い点を指摘し)、忠告する意味である。どちらも、将来に備えて、諭してくれる上司・先輩、諫めてくれる部下・後輩をもっていなければならない。

 得意になっている時は、注意(忠告)など聞く耳をもたないことになる。諭し・諫められると、物ごとに対して立派に立ち向かおうと意気込んだ心に、水を差されたような気になってしまう。注意する人を遠ざけたくなる。そのようになっている人は、特に心に驕りが出ているため気づかない。ことが破れるのは得てして、驕りが出ている時である。特別の場合に限らず、穏やかで、何も変わったこともなく安らかである時であっても、自分の言葉の中にも実は反省すべき点はいくつもある。しかし、そのような時でも、それに気づくことは少ない。このように考えると、どんな時も諭し・諫めてくれる人が必要になる。それらをする人がいないと、必ず上手い言葉で騙そうとする人が現れる。たとえば、人の気に入るような口先だけの上手い言葉で惑わす人や、相手に気に入られようとしてご機嫌を取る人が、そこに入り込んでくるものである。悪い点があったら、家族や仲間の一人ひとりに注意してもらうようにしておかないといけない。よくない点を諭し・諫めてくれる人がいるから、身を誤る(名声が遠ざかる)ことはないといえる。

〖注意〗自分たちの場所(仲間の一人ひとり・その家族が職場・家)を守るという考えから、それらの繁栄を願い、相手から寄せられる信用と人望を思い、自分の利益を顧みずに注意できる人であって欲しい。ただ、ここで心したいことは、上司・部下・先輩・後輩に意見を聞いてもらえるかどうかである。諭し・諫めて聞いてもらえないのでは、しない方がよい。そこで聞いてもらうためにどうあるべきかを考えてみたいと思う。

 1つに、諭す人・諫める人が、諭される人・諫められる人に信頼されていることが大切である。人格や才能・努力に欠ける・志を掲げ、強固にしない人が注意しても耳を傾けてくれないものである。

 2つに、事前に根回することを欠かさないことである。要するに、先手を打つことである。たとえば、上司の公私混同をあらためさせたいなら、自分の部下に徹底しておく。また、その上の上司から公私混同の自粛を徹底してもらうなどである。

 3つに、最も必要なことだが、相手の心(相手の状態・気持ち)になることである。

 4つに、相手の気持ちに逆らわないように、相手の急所(知られたくない、恥ずべき部分など)にできるだけ()れないように工夫して諭し・諫めることである。

 ここまで、諫める・諭す時について述べてきたが、上司・部下・先輩・後輩に関係はなく、この4つの要素が大切になる。

〖注意〗目上の人ともなれば、子や仲間は自分に従うのが当然という意識が強い。そういう人に向かって諫めることは、ガソリンに火を近づけるに等しい。爆発したら本来の意義や当初の目的などが失われるだけでなく、失う必要のないものまで予期せず失われることになる。とくに相手の急所、知られたくない、恥ずべき部分などに手を近づけただけで、ことが円満を欠き、とげとげしいようすになる。諫める人の苦心はここにある。決して()れてはいけない。

韓非子(かんぴし)」の一節に『逆鱗(げきりん)()る』とある。「逆鱗」とは、龍の(のど)の下にある逆さに生えた鱗のことである。龍は本来温厚な生物である。しかし、この逆鱗を触られると激しく怒って興奮して人を襲ったという伝説から、「触れてはいけないもの」を指す。このことから、君主の怒りを買うことのたとえとして「逆鱗に触れる」が用いられ、現代では目上の人を怒らせるということになる。よって意見を述べる人は、目上の人の逆鱗に触れなければ、成功できることになる。

本当の謙虚を身につける

 人は、簡単に謙虚になれないものである。

 本当の謙虚さを身につけている上司、先輩は、内面から、自信が伝わってくる。正しい自信を身につけた上司・先輩は自然に内面から、謙虚さが表れるものである。

 本当の謙虚さを身につけるには、たとえば、人の残念な姿を見た時「自分はあの人とは違う」「決して、あのような姿は示さない」と密やかな自分中心(自分本位)に導かない(人を裁かない・見下さない)ことである。あの姿が自分の中にもあることを教えてくれたと心を定め学ぶべきである。その時私たちは、本当の意味での謙虚さを身につける。それを積み重ねていくことが正しい自信につながることになる。

有言実行

 昔の戦場での一番槍(戦場で最初に敵陣に槍を突き入れること)は最高の名誉とされていた。それと同じではないが、現代の環境であれば、目の前の最も難しい問題に、有言実行で立ち向かっていくことが最高の名誉としたいものである。

 なぜかというと、この問題は文字通り困難なもので、時間が経つにつれて重大性を増す。そのため、誰かが早く、有言実行のもと立ち向かう必要がある。それが、この人が居てくれて有難いと思われる存在(仲間の信頼を集めること)につながる。

 何も言わずにやる美学もあるが、あらいでは有言実行を旨とし、仲間一人ひとりが奮起できるようにする。企業を立派にできる人が育つように、目指すべき方向・場所に仲間を導いていかなくてはならない。そのような人がいないとそもそも戦えないものである。

 この有言実行は、当たり前に、自らの言葉に実行が追いつかなければ、恥をかくことになる。その意味で、成長のために自らを追いつめるものといえる。

感性的な悩みをしない

 感性とは、無意識的、感覚的な意識に基づく思いで、その対極が理性である。

 人生において、誰でも失敗や間違いを起こすものである。しかし、そうした過失を繰り返しながら、人は成長していくものであるから、失敗をしても悔やみ続ける必要はない。起こってしまったことを、いつまでも思い悩んでいても何の役にも立たないものである。それどころか心の病のもとになり、人生を不幸なものにしてしまう。自分のどこが悪かったのか、十分に反省した後は、くよくよせずに新しい道を歩みはじめることである。済んだことに対していつまでも悩み、心労を重ねるのではなく、理性で考え、新たな行動に移ることが大切である。

 常に仲間一人ひとりが現状を本質的に捉え、正しい未来を進むようにしなければならない。

もう駄目だと思ったところからはじまる

 社会では、苦労して成功した人もいるが、苦労に負ける人の方が多い。苦労に流され溺れそうになっても諦めず、必死になって泳ぐことが必要である。危機に陥って「もう駄目だ」と思った時こそ「ここからがはじまり」と自分に言い聞かせなければならない。人の世渡りにしても、経営にしても苦難はつきもの。人は苦労するために生まれてきているとさえ考えられる。ただ世渡りをする人は、手・足・頭も十分に動かさず楽をしようとするため、流される(沈む)ことになる。うまく世渡りしようとする人は、手・足・頭も十分に動かし、あきらめなければ渡れるものである。

 苦労に流されずに泳ぎきった人は(たくま)しく、これが仲間にとっては一つの魅力となる。会社にどのようなことが起こっても、必ず解決できる人という印象を与えるからである。ボクシングや相撲などにしても、一つひとつの勝負だけではなく、勝ち抜いている人に人気が集まるのと同じである。それは、人気を勝ち取るまで乗り越えた苦難(修練の苦に耐えること)に対するものでもあると言えよう。これを言い換えると、脱落した人が沢山いる中で、よくぞ上り詰めてきたという称賛が人気となり(あらわ)れている。

劣等感を知る

 誰にでも、心の奥底(無意識)に劣等感を抱いているものである。教える人が、そのような心だけならば、教えてもらう人が、その劣等感を刺激することになってしまう。そして、表面意識では指導することになるが、教えてもらう人の意欲を消してしまう。したがって上司・先輩は、自分の心の奥深くにある「無意識」の劣等感に気がついていなければならない。

 では、その心の奥深くの劣等感に気がついたとして、どうすればよいのか。もとより、劣等感を克服できている(なくなっている)ことが理想である。しかし、心の奥深くの劣等感を克服することは極めて難しい。けれども、劣等感に気がついているだけで、あまり悪い作用をしなくなる。そのため、その存在に、気がついているだけで救いになる。たとえば、記憶力の悪い人がいる。自分の記憶力の悪いことを嘆いている。それだけでは、病的な状態ではない。自分の劣った部分を認め、嘆くだけの心(状態)では、他者に対して、あまり悪い作用をしない。しかし、心の奥深くで、その劣った部分を認めなくないと叫ぶ時、私たちの心は病的な状態に陥る。そうして、他者に対して悪い作用をはじめることになる。したがって、その心の闇の部分に、光をあてればよいとなる。言葉を換えれば、自分の心の奥深くにある「無意識」の劣等感(自分の怠った部分・未熟な部分)を認めることである。その上で、劣等感を減らせる(克服できる)ように工夫や努力することが大切になる。

〖注意〗教える立場の上司・先輩は、部下・後輩の劣等感も、理解しておかなければならない。劣等感を抱いている部下・後輩も、上司・先輩と同じように、その劣等感を認め、少しでも工夫や努力していくことが大切になる。

落ち着いて動じない人になるには、自分を捨てる以外にない

 木鶏とは『荘子』にある言葉だが、木を刻んで作った鶏のことで、この木製の鶏から転じて、少しも動じない闘鶏とうけいのことをいう。

 生きた鶏は、些細なことで驚くが、木鶏ならどんなことがあったとしても驚かない。それは不動の平常心ともいえる。上司・先輩がことあるごとに部下・後輩と共に驚く(悩む・悲しむ・嘆く)ようでは信頼を失う。このようであるならば、上司・先輩の椅子に代わりに木鶏を置いた方がよいことになる。それは何ごとにも落ち着いて動じないという人でなければならないことを指す。

 自分が木鶏になる道は、まず努力すれば不可能はないと信じ込む。次に冷静を保ち、私利私欲などを捨て、周りをよくするために自分の力を最大限に発揮する。そうして、逆境である目の前の最も難しい問題を解決する。これを続けることで、どのような問題でも解決できるという自信をもつ・恐れるものなしという心の状態にすることである。それ以外に落ち着いて動じないという人になる方法はない。

 このように上司・先輩は毅然たる態度で臨み、周囲からの信頼感を高めなければならない。それであってこそ、徳厳が保たれる。ただし、冷静沈着と図々しさ・図太さとは紙一重であり、見分けのつかないことであるから、そのような人にくれぐれも気をつけなければならない。

周りの人がいてくれることに感謝する

 仲間と切磋琢磨する(刺激し、助け、競い合う)ことは、仲間がいてはじめて体験できる。人にとって最も重要な資質である「誠実さ」や「思いやり」「責任」の心をもっていても、自分一人では発揮できない。共に研鑽(けんさん)を積むことで、仲間一人ひとりの人格も大きく育まれ、心が通じ、尊敬し合えるようになっていく。お客様・世間のお陰で、私たちの力を発揮できる。厳しいから磨かれるのである。周りに人がいることを当たり前とするのではなく、いてくれることに感謝する。何ごとも感謝した上で、(うやま)うことをはじめていかなければならない。

元気な挨拶をする

 今日も一日、大変であるけれど「私は頑張ります」という仲間に向けた意思表示のようなもので、自然にこのような思いを込めて挨拶ができるようにしていただきたい。

心をこめる修練をする

 本当に心をこめないと、相手の気持ちに伝わる感謝はできないものである。心が弱ければ、感謝する度に自分が失われているような気になり、それが相手に伝わる。

 たとえば、部下・後輩に感謝できない上司・先輩がいたとする。上司・先輩であるかぎり、部下・後輩に指示を出し、動いてもらうことは当然あってよい。しかし、その心の深いところで部下・後輩に感謝しているかが、上司・先輩の生涯の歩みを分ける。その理由は、相手が部下・後輩であれば、堂々と感謝できるような心の強さが必要になる。それは、魂の強さといってよい。しかし、この感謝も、本人の気がつかない「無意識」になるため、その理由である自身の魂の弱さに気づけない。そして、形の上で感謝の姿勢を見せる上司・先輩は、表面上、感謝の言葉を述べている。しかし、その言葉から、本当に心がこもった感謝は伝わってこない。

 その理由は明確で、心そのものが弱いから、心がこもらないのである。心をこめることは、実は大変な心のエネルギーを要する。このことは大切なことを教えてくれる。もし、私たちが心を強くしたいのであれば、一つの明確な方法がある。それは、相手に意識を向けて、心をこめる修練し続けることである。

 私自身、心が弱いため、相手に伝わるような感謝ができない人である。それでも、仲間と共に立派な人に育ちたいと考えている。だから、心をこめ続けなければならない。

 一日の終わりに自分の至らないところ(仲間から注意されたこと)は反省し、有難いと感謝する。そして、次の日から気持ちを新たに進んでいく。そのような毎日を繰り返していくことが大切である。それが、成長することにつながる。

仲間をよく知る

 厳しい未来に挑戦し、運命を共にする。その中で、仲間の性格・適性・力量はもちろん、趣味趣向(好き・親しんでいる・励んでいる)、更には心境・心掛けていることまでうかがい知らなければならない。人の短所・長所も分からず、長所の中にある短所・短所に混ざる長所も分からないようでは、人の指導はできないし・人に教えることもできない。つまり、相手を知ってはじめて上司としての役目は果たせるものである。

長所をより多く見出す

 指導統率にあたってはまず長所をより多く見出すべきである。人の長所をより多く見つけることは、自分と相手にとって共に役立つ。仲間の長所を取り上げれば、当然に自分の短所に気づき自己形成に励む。同時に仲間は、長所を更に伸ばそうと考える。それに対して、短所や過ちだけを取り上げると、かえって仲間は反抗心を呼び起こすことになり、ついには劣等感を抱くようになる。誰しも長所を挙げられて気を悪くすることはない。仲間に喜んで働いてもらう道は長所をより多く取り上げることである。これは「仲間の短所を無視せよ」という訳では決してない。部下に対して、短所や過ちをまず取り上げるのと、長所や功績を先にするのとでは指導統率を受ける部下にとってその効き目に違いが出てくるからである。

落胆させず、希望をもってもらえるよう、協力する

 人の実践すべき道義、道徳を守り(周りをよくするために自分の力を最大限に発揮し)親身になってくれる(「思いやりと責任」「慈しむ心で人を育てる」「良心を偽らない・誠実な心」で接し、自身の力を最大に発揮させてくれる)人を尊敬して慕うものである。

 このような気持ちに強く心を動かされ、利害や損得を無視して、手助けをするものではないだろうか。こういう経験は自分にとってもプラスになるため、その人と関係をもちたいと考えるものである。

 若い人であれば、体力はあるけれども、何が正しいかわからない不安。そのままでいると気力も衰えてしまう。高齢者であれば、体力の限界を意識するようになり、高まるのは定年後の不安。低くなるのが気力である。

 それらの人は、立派な人になろうと考えている。そのため、それを助けるような人に魅力を感じる。英雄・偉人・人気のある人を慕うのは、興味だけに限らず、そうした人になりたいという欲求からでるものである。それと同じで立派な人を慕う心もそこにあるため、心と心の結びつきをつくるには、その先がどうなるか分からないという不安を取り除き、希望がもてるようにすることである。それには、まず正しい所に導きながら仲間の期待や希望どおりにならないことを避ける(がっかりさせない)。そして、自分で叶えられるように協力し、明るく輝く未来を(みい)()せるようにすることである。

 歴史を見ても、立派な仕事を完全に遂げた優れた人には、多くの有力な仲間が一つになって協力している。これは仲間だけに限らずお客様、仕入れ先にも通ずるものである。

 孔子は「高齢者からは安心され、同輩からは信頼され、年少者から慕われることが自分の理想である」といっている。

大善小善の本音でぶつかる

「大善は、非情に似たり」「小善は、大悪に似たり」という仏教の教えがある。大善は本気で相手のことを考えての行動、小善とは自己満足のための行動である。つまり、本気で相手のことを考えた行動は非情に見えても、よい結果になる。一方で、自己満足のために行う善行は、善意から行ったことでも大悪になる。

 たとえば、お金に困って借りにくる人は皆、理由を並べてくる。同情が先立つ場合、どの話もまともに聞こえる。後で考えると話の辻褄(つじつま)が合わないにもかかわらず、その時は気づかない。何とかしてやりたいと先に考えるからだろう。貸したが最後、多くが投げられた小石のように、便りをやっても返事がないことになる。そのような人達が、それで成功しているなら、それでよいかもしれないが、大部分は失敗して世間から捨てられている。そうなると、情に流されお金を渡すことがお互いにとって最も悪いことになる。次に、お金を貸さないことになる。しかし、相手の先のことまで考えていない(思いやりと責任が薄い)場合、よい未来につながらないことになる。したがって、お互いにとって最もよいのは、お金を貸さず、どのようにして逆境から這い上がるかという知恵を一緒に考える。逞しく生きていくために手伝う・協力することである。これはお金を借りにきた時の話であるが、それ以外の時でも、同じようにすることが正しい。将来を長い目で見て考え、厳しく接せられる人は、煙たがられるかもしれないが、人を大きく成長させられることになる。本当の愛情は相手を幸せにするため、大善になる。逆に、将来をきちんと考えず仲良くする人は、一見よい人に見えるかもしれないが、仲間を駄目にしていくことになる。上辺だけの愛情は相手を不幸にするため、小善である。社会人、大人として、会社と仲間の将来のことを真剣に考え、よいことで続けてほしいことは褒める。続けてほしくないことはきちんと注意できる人になってもらわなければならない。上辺の話や、お世辞、相手を思って厳しく導くことを躊躇(ちゅうちょ)する(あれこれ考えて迷い)などの行いは、道理をわきまえない・欲にのみ熱中する情でしかない。真に相手を思う心があるなら、非は非とし、本音で話していかなければならない。相手を思う心があるなら、非は非とし、本音で話していかなければならない。

愛情の中にも厳しさを忘れてはならない

 たとえば、自分の志を掲げ、強固にしようとしない人に意欲を上げるように厳しくせず、やらない人を罰しない。その結果、規律が乱れ、命令にも服さず、責任も負わないことになる。何もしなくても責められることはないからである。

 他にも、中途退職されては支障をきたすため、傲慢、過ちも見過ごす。仲間の歓心(かんしん)を買うためにアメは与えるが鞭は加えない。これでは会社が甘く見られるのも当然である。

 それらが、企業が衰退することにつながり、困ったことになることは明白である。どのような未来になるか先見していただきたい。

寛大でなければならない

 人の心を動かすものに、親が子どもを慈しみ可愛がるような慈しみの心がある。それと同じく、度量が大きく、むやみに人を責めない寛大な心がある。

 才能・財力などに恵まれ、大きな目的をもったとしても、多くのものを受け入れるには、それ相応の寛大さがなければ大成することはできない。寛大であれば、部下・後輩も喜んでついてくる。もう一つの効果として、部下・後輩を素直で正直な人に育てられるものである。

「ひとつやふたつ過ちを犯すような人でなければ、使い者にならない」といった人もいるが、自分も同じである。些細な過ちにも目を怒らせ、人の小さな欠点を探し出しては目の敵にしているような人に人望が集まることはない。自らの人を受け入れる心が狭いこと、小さい器量をさらけ出しているからである。部下の小さな欠点を見つけたら、より大きな長所を見つけるべきである。部下が小さな過ちを犯したなら、失敗は成功の基であることを知るべきである。

 人を受け入れる(心が寛大な)人は、小さな過失に対して見て見ない振りをして、人望を得ながら全体を大きくまとめる。そうあってこそ、変化の激しい時代に対応できる仲間が育つと考えなければならない。これが人の器といえるのではないか。小さい過失も許せない人は、最も下手なリーダーといえる。

 よく受け入れる大らかな心がある人だけが、人を責める資格がある。その人から責められれば、相手も(せき)を受け入れる。よく受け入れる大らかな心がない人には、()める資格はない。責めたとしても相手は、それを受け入れることはない。

 人格のある立派な人というのは、同じ部下を責める場合にしても、部下が憎いから叱るのではない。可愛いから叱るので、過ちを責めるのではない。過ちをなくすために責めるので、怒り叱るのが目的ではなく、正しく導くのが目的なのである。相手を憎んで責め、激しく怒り(ののし)れば、反感や抵抗が出ることになるが、自ら反省して正すことはないものである。愛情をもち、怒りを和らげ、短所や欠点を指摘しながらもその長所を認める。そうすれば、反感は感激に変わり、抵抗は従順に変わることになる。

 このように、寛大なことは道徳にかなった立派な行ないである。しかし、行きすぎると道義に外れた行ないと同じ結果を招くことになる。人情深い人・嫌といえない人格者などと表面はいわれているが、内心では、人がよすぎることになり、部下・後輩にバカにされる。頼りにならないなどと陰口される人もいる。まさにその通りで、単なるお人好しだけでは、企業と人は守れない。やはり、寛大の中に一定の度を越さない。適当な程合いをもつことが必要である。先賢の教えも仁の大切さを教えているが、これは「会社が滅び、自分が潰れても」仁を実践することでは決してない。

 したがって、会社を危機に追い込む、あるいは敵対するような行為については、定められた処罰に処するのは当然である。その罰を軽くしたり、見逃したりするのは行きすぎで、かえって秩序を乱し、社内の不満を助長して混乱の原因となる。寛大になりすぎるのは、仁になりすぎる。つまり、相手の立場を考えすぎることである。

 会社のためには、寛大になりすぎてはならない。ただしなっても一分である。私情では、寛大になりすぎるくらいが望ましい。過ちの多くは、自分の保身のためである。よりよく見られたい、言われたいという思いが(つの)ると、寛大すぎになってくる。叱っては、憎まれはしないか、前任者と比較されやしないかなど、背伸び根性が出てくる。一度寛大にすると、次々に寛大になって、ついにはお人好し集団となってしまう。これは公私混同になる。寛大過ぎては乱れることを知らなければならない。

〖注意〗あらいの人間力を高める(志を掲げ、強固に育てる)よい習慣を身につけていこうとしていない人に、寛大であってはいけない。反対に、あらいの人間力を高める(よい習慣を身につけていく)ことに対して、惜しみなく努力する人には、寛大でなければならない。

寛大の心を養成する

 部下・後輩の手柄を上司・先輩が横取りすれば、部下・後輩の心は離れる。こうした気持ちのある上司・先輩は、それだけに留まらず、自分のものとしてほこり、自慢じまんして思い上がる。自分で自分を過大評価して、満足して喜ぶ。これが大きな落とし穴になる。逆に、手柄(優れた働き・成果)は、部下・後輩のものとして考え、それを自分で取れるようにする。そうするなら、部下・後輩は、ことをやり遂げようとする(積極的な)気持ちになり、尽くす努力を惜しまないことになる。こうした気持ちのある上司・先輩は、いつも謙虚で、人を敬う心が自然に出ている。会社の内外を問わず差別なく、皆同じように敬意を表し、何も企むことなく、大切に思う人の輪を広げていくものである。

 部下に手柄を与えてしまえば、自分に残る手柄はなくなってしまうと思う人がいるかもしれない。しかし、部下・後輩に手柄を与えても・与えなくても、そのことがうまくいくことに関係している訳ではない。大切なのは、上司・先輩が能力(マインド・スキル)を高め、一つ上の仕事で手柄を上げていく。部下・後輩も、同じように能力を高め、手柄を上げられるようにすることである。そうしてお互いで、自分たちの道を開くようにすることである。そのような準備ができている(志が強固な)場合、与えた功より大きい功となって返ってくるものである。準備ができていない(志が強固でない)場合、いずれは自分の手柄さえなくなってしまう。そのことを先見し、知っておかなければならない。このように考えると、寛大さが大切な要素となる。

 その寛大の心を養成する(寛大さを自然に()み込ませる)第一条件は、志があり、それを遂げるためにそこまで準備、努力していることが重要になる。言い換えると、向上心に燃え、常に前傾姿勢をとっている人になる。そのような人は、現在の仕事は大切であるが、次の仕事をしていかないといけない意識が強い(よい意味で現状の仕事に不満をもつ)。人が余っているのなら、現在の仕事を譲り、未来の仕事に取り組める。しかし、そんな余裕がある訳もなく。自分の時間を割いてでも、未来の仕事に役立つことを学び・実践していくことが正しいと考えられる人でなければならない。部下・後輩にも、同じようにしていくことが、将来のための備えになるし、人を早く昇進させることにもつながる。主任になれば部長、部長になればその次というように一段上を目指す。主任になった時には、すでに主任の仕事を全うでき、次の仕事を目指しながら、自然に他の人にその主任の仕事を任せているような状態が正しい。

 寛大さを自然に沁み込ませるようにする第二条件は、思いやりと責任をもち、相手の立場に徹することである。人は誰しも上司から怒られるのを望まない。自分も望んでいないとすれば、怒らない方がよい。怒る原因のほとんどは自分にあると思えば、振り上げた手もそっと(おろ)すことになる。もし、どうしても怒りたかったら、相手のよい所を探す。必ずあるはずである。部下に文句をつける目的は、非を改めさせるとすれば、怒り叱らなくても改めさせる方法はいくらでもある。他に、改めようのない小さな過ちを責めることは、悪い者を非難すべき点にも劣る。改めなければならないのは、むしろ自分であることに気づくべきである。

責任は自分で負う

 たとえば、上司・先輩が、自分の権力で何でも叶えられると思っている。そのため叶わないと不満を抱き、ついには怒り出す。後輩・部下が、この人は分かっていないと、不満を抱き、やる気をなくす。困難や失敗を相手の責任とすれば、快く思う人はなく、普通以上の抵抗さえ起こるものである。これらはお互いに成功が見えないから、人のよい点が見えなくなる。そして、人の欠点や過ちだけが目につくことになり、目つきまで卑しく険しくなる。これでは前進する・社内を明るくすることもできない。したがって、お互いが、そのようになって止まるのではなく、正しい(正しいであろう)未来を見る。その上で、どうしたらうまくいくか考え、自分の至らないことに気づくようにして、自分の力を最大に発揮していかなければならない。このように、お互いが相手の過失を自分の責任とするならば、相手は感激する。そうして、それに報いようとするものである。ここに述べた流れを私と仲間が心の中に思い描き、ことに挑んでいかなければならない。

 孟子(もうし)の説く「自反」に、安岡正篤氏が「尽己」を加えた〝自反(じはん)尽己(じんこ)〟という言葉がある。これは【指を相手に向けるのではなく自分に向ける。すべてを自分の責任と捉え、自分の全力を尽くすことである】という意味になる。

 渡部昇一は、「大きな成功を遂げた人は、失敗を人のせいにするのではなく、自分のせいにするという傾向が強い。失敗や不運を自分に引き寄せて考えることを続けた人と、他のせいにして済ますことを繰り返した人とでは、かなりの確率で運の良さが違ってくる」といっている。

 松下幸之助も「僕はな、物ごとがうまくいった時にはいつも皆のおかげと考えた。うまくいかなかった時はすべて自分に原因があると思った」と話している。

 私も経営する(何としてでも周りをよりよくし、自分の人生をよくしていこうとする)中で、相手が思うように動いてくれないことをいくつも体験した。責任(本来自分が負うべきもの)を他になすりつけられず、心身ともに苦しむ。その失敗のせいにして不幸になっていく訳にはいかないため、そのうまくいかないことを自分の責任であると捉え、自分の最大の力を発揮し、成り立つように仲間のお陰になるように努めてきた。

 今でもこの問題が起こるたびに、心身ともに苦しむ(不快な)ことを乗り越えてでも、関わる人と信頼関係を築くよう(自分に)言い聞かせている。これからも今まで以上に、このことを意識していかなければならない。

人の心が分かる

 相手の心を感じ取ることは、何をする上でも大切な資質になる。相手の心のリズム(強弱・明暗・遅速などの動き)を細かく感じ取り、それに合わせて細やかに働きかける人は、「相手の機に応じて語る」ことができるため、心地よく感じるものである。

 それには、まず相手をよく知っているか。そして、若き時代に社会・組織・人の裏表も見て、そこから真正面から向かい合い、よくすることをあきらめず続けてきたか。更に、自身と相手のよい未来が見えているかが深く問われる。

 そのような人であれば、部下を指導しようと一つの言葉を発した時、相手がどう感じたのか、その心の動きが分かる。言葉が過ぎた時、足りない時、すぐに細かなさじ加減ができ、バランスが取れる。それらをしっかり掴んでいれば、迷うことなく、一人ひとりの個性に合わせた指導ができる。そのような修行を続けていると、多くの部下を預かるようになり、集団の心が見える。言い換えれば「場の雰囲気」を感じ取り、読めることになる。 職場のあちこちを回りながら、いろいろなスタッフと雑談をする。他愛もない雑談をしながら、「職場の雰囲気は、いつもと違っているか。何が違っているか。その原因は。そんなことを感じ取りながら、職場を歩き回る。頭で考えるのではなく、体で感じる。職場の空気を肌感で掴み、組織の成果が上がるように生かすことである。

自分より優れた部下・後輩を育てる

〝伸び続ける企業〟は、上司・先輩が部下・後輩に、能力のすべてをゆずり育てている。部下・後輩はそれに応えて、上司・先輩よりも優れた人になろうと努力している。その能力は向上し続け、絶えることのない人材は〝企業の財産〟といえる。思うに、伸び続けている企業は、仲間に志のようなものがあり、強固になるようにしている。

 ところが、伸びない(経営に行き詰まる)企業は、上司・先輩が部下・後輩に能力を譲らず、人を育てない。思うに、伸びない企業は、仲間が自分本位なため、志のようなものがない。それは、上司・先輩が、後のことを何も考えない(深い考えがない)ことからはじまる。そして、能力を譲ってしまえば、自分より優れた人になるかもしれない。自分の地位が脅かされると考え、自分の地位を楽な方法で守ろうとする。そんな上司・先輩を見て、部下・後輩が上の人を追い越すことはない。新しい人も優れた人になろうと努力しない。これでは、会社の勢いも失われ、危うくなってしまう。

 上司・先輩の最高の任務は、自分の能力を高め、自分たちの道を切り開く。その能力のすべてをやる気のある部下・後輩に譲り、自分より優れた部下を育てることにある。部下に仕事を譲れば一時的に仕事は減るが、道を開くために準備をしてきた人は頭の中が減ったままにならない。更に強力な能力を仕入れて、それをまた、部下・後輩に譲る。部下の能力も向上するが、自分の能力も更に進化することになる。そのように前進する上司・先輩が優れた部下・後輩を育てるのである。

 一生の(あいだ)、人に道を譲ったとしても、百歩も遠回りする訳でもない。わずかなものだから、こちらから譲るべきである。前もって、それとなく相手の道を用意しておくことは、後の一歩が上手く行くようにするために必要なことである。それは、一歩退くことでもない。

「先見」する

 物ごとの結果には必ず原因がある。種を蒔かねば芽をだすことはなく、火のない所から煙は立たない。したがって、未来を見たい、結果を知りたいと思うなら、はじまりを知ることが先見の第一歩といえる。たとえば、出発点を見れば将来どうなるかの予測がつくものである。企業にしても、満ち足りて驕っているようであれば、やがて衰えると予測される。現在は小さくても志が大きく、行動がともなっていれば、いつか花を咲かせられる。端を見れば末の見通しはついてくるものである。

 難しい問題は簡単な所から起こり、大事は取るに足りないほどわずかなことから起こる。困難になりそうなことは容易な内に処置し、大事件になるようなことは小さい内に処理しておかなければならない。これらは、細かいことではあるが、疎かにしてはいけない。

 歴史に名を残す人物の言動を見ても、ちょっとしたことに気配りをする。容易には察せられない微妙な人情に関心をもつなど、極めて細かなことを大切にしている。この繊細な心が小さなことに気づかせる。細かなことに気づくから、先々の普通でない差し迫った状態や、物ごとの正しい順序・筋道が混乱することを先見できるのである。細かな現象を粗末にせず、将来の大きな変化を見ようと先見することを常に心掛ける。そのようにして遠い先まで見通す深い考えをもてなければ、必ず身近な所で困ったこと、危険なことが起こることになる。

知識・知恵・見識を有する

 知識とは知ること。認識・理解することで、ある事柄に対して明確に知っていることをいう。知るだけの能力が知識に該当する。

 知恵は物ごとの筋道・道理がわかり、うまく処理していく心の働きになる。その他に物ごとの筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力をいう。知識や経験などの多くの情報から必要な場面に応じて、取捨選択(悪いもの・不必要なものを捨てて、よいもの・必要なものを選びとろうと)する能力が知恵に該当する。機転を利かせた判断には知恵が必要である。

 見識は物ごとを深く見通し、本質を捉える。優れた判断力。ある事柄などについて、確かな考えからの意見と見方になるため、見識が狭ければ要点などを確実に捉えられないものでもある。知識や経験からの情報をもとに、本質を据えて判断し、付加価値を生み出せる能力が見識に該当する。相手を納得させる判断をするには見識が必要である。

 それらを踏まえ、知識より知恵・見識の方が価値の高いものといわれていることもあるが、土台である知識が少ない知恵・見識は役に立たないため、どちらに価値があるというものではない。そのようなことから織田・豊臣・徳川の三代に仕えた細川幽斎は「乞食袋をもて」と述べている。その日に見聞きしたものを乞食になったつもりで袋の中に入れ、物ごとを謙虚に見て、自分に役立たせよということである。

 人の器量(物の役に立つべき才能と徳)は知識・知恵・見識によって大きくなる。それらをしっかり身につけるにしたがって成長していくものである。

〖注意〗器量がある人(大きな物ごとを成し遂げる能力がある人)はまず志をもってよく学ぶ。そして、道義に適ったよい行いを十分に自分のものとした人といえる。目的をあやふやにして学ぶよりも、志を掲げるほうが効率的である。志が強固でないと学ぶにしても力一杯行えないものである。

実践する(思いきった勇気)

 ことを成すために実践が伴わなければ時間の浪費でしかない。理想を抱くことは、こういうことを「実現してみせる」ということで、将来あるべき姿を先見することになる。しかし、将来の姿を描いても実践に移さなければ、単に夢を見ているに過ぎない。本を読んで、面白がったり、悲しんだりするだけではなく、読んだら実践し成果につなげなければならない。

 社内教育においても、先見し、学んだにもかかわらず結果が出せないのは、そこに教育を抹殺しているものがあるはずで実践・創意工夫していないのである。ただ学ぶだけでは、いずれ忘れてしまい身につけたことにならないが、そこに実践・創意工夫が加われば学問の裏づけもでき、学び甲斐も出て続けられる。学習効果が表れないのは、自分でやろうとしていないからである。実践するには、やはり、お互いが実践していく場をつくる。そして、権限委譲がされなければならない。

 また、成果を得るための条件は「思いきって実行する勇気」が必須になる。しかし一時の感情や思いつき、意地、血気にはやって実行する向こう見ずな勇気では、危険が多く成果につなげるのは困難である。最も成功率の高いものは、まず正義に(かな)っていることであるが、それだけでは成果が上がるとは限らない。そのため、工夫を加えて万全としなければならない。つまり、正義と工夫を加えて思いきって実行する勇気になる。

 険しい理想なら注意深く進むのがよい。遠い理想なら早く出発する。いずれにしても知ったら早く準備をして、実行に移すのが成功への近道である。

「創意工夫」を旨とする

 創意工夫とは、現在与えられている仕事をよくするために、考えを巡らし、これまでになかったよい方法を見つけ出すことである。

 自身やまわりを把握し「どうしたら早くできるのか」「どうしたら喜んでもらえるか」を真剣に考え、実践・創意工夫していくことで、よい成果が上がるようにすることが楽しみにもなる。ここから気力・情熱を生むことになり、それが溢れることにもつながる。毎日、よくするために会社に来ているのである。創意工夫を旨としなければならない。

気力・情熱を生む・溢れるようにする

 気力・情熱とは、自分で何かを成そうと活気づいて、自然に噴出してくる勢いである。それが負けない執念となる。倒れて止まずの強い心・気概きがい(困難にくじけない強い意志)となり、不屈の精神と目的を果たすために必要な知恵を次々に与えてくれるのである。

 先頭に立つ者が気力・情熱に乏しく、衰えて意気消沈していては、若くても老いぼれのようであるから、他の仲間も奮い立つことはない。それでは戦わずして敗れることになる。対して、先頭に立つ者が気力と情熱が(あふ)れ、意気盛んであれば、年老いても青年期のようであるから、他の仲間も奮い立つのである。こうすることにより、戦わずして圧することもできる。

 このように考えると、何ごとを成すにあたっても、気力・情熱はすべてを決するものであり、人生を動かす力と言っても過言ではない。この気力・情熱を主体とする優れた活動が、人が万物の中で最も優れている理由になる。

 では、一体この気力・情熱をどうやって生み・溢れるようにするかになる。

 この気力・情熱を生む・溢れるようにすることを私の場合で説明すると、創業から新規開拓をはじめ、仕入れ先をつくり、税金を納める。個人の力だけではなく企業で仕組みをつくってより大きな力で人を幸せにできるように、この事業も人も立派にしていこうとする。その内に、少しずつ気力・情熱を生み・溢れるようになっていった。それは、外からの新しい刺激と行動することからはじまる。その時の想定される「よい未来」と「現状のままの未来」との間の「差分」を頭の中で明確・鮮明に描き(気力・情熱の源)、「差分」を埋めるための行動が(ともな)っていれば「気力・情熱」を生み出せることになる。対して、

 現在の行動が差分を埋めることに見合っていなければ「気力・情熱」は生まれない。その場合でも、行動を起こすことによって、現在の行動に足りないものを探し、その差分を埋めることに見合った行動にすることが重要である。

 このことを踏まえて、私を含め仲間一人ひとりが、気をつけなければならないことがある。それは、毎日忙しくスケジュールが埋まって走り続けている人などは、一見するとよいように見える。しかし「気力・情熱の源」に対して「差分を埋めるための行動」が伴っていない場合、昨日・一カ月前・一年前の自分と比べても、当然に行うことも何も変わっていないことになってしまう。当たり前のことながら、このような取り組みだけでは、周りの人に喜んでもらえず・自分でも実感できないため、気力・情熱が生まれない。したがって、これを「よし」としていては会社も同様に、何も変わっていないことになる。それがどのような人生につながっていくかをよく考えていただきたい。

「差分を埋めるための行動」を常に取ることは難しい。それは、主観的に捉えると常に現在が0時点になるためである。それでも現実的に、前に進むのが当たり前であると考え「差分を埋めるための行動」を継続的に行って、気力・情熱を生まれるようにし、溢れるようにすることが大切になる。それを進めるにしたがって、自信につながり、勇気となって現れるからである。

最後までやり遂げる「執念」をもつ

 執念とは、執着して離れない心。物ごとにとらわれた心。思いを遂げねば止まぬ心といえる。目の前の最も難しい問題を解決しようと気力・情熱を生み・溢れるようにし、何としても解決しようとする中から生まれるものが執念である。

「経営は結果」といわれるが、結果のない経営はない。自分の力を役立てて結果を得なければ無いに等しい。権力を誇っても、それを用い、成果を得なければ意味がない。また、目的をもって権力を活かして実行に移したとしても、中途で駄目になるならはじめない方がよい。成功の可能性を信じたなら、あくまでやり遂げる執念が重要である。

「一つの目的に向かって自分の力を最大限に発揮・没頭し、目の前の問題を解決するまでやり遂げる」とは、私なりの執念の定義である。執念でことにあたれば恐れるべきものはまったくない。全身これ執念であれば、すでに自分というものを忘れ去って問題の解決に没頭しているからである。

幸せになるための「潜在意識」を使う

 私たちの意識には階層が2つあり、顕在けんざい意識と潜在せんざい意識に分けられる。
 顕在意識とは、自覚できている意識のことを意味し、何をするにしてもはじめは、顕在意識を使って学習していく。それを何度か繰り返し、潜在意識に焼き付けることで、顕在意識を使わなくても無意識に行動できるようにしてくれる。
 潜在意識は、無意識に心の奥に潜んでいる自覚できない意識のことを意味する。価値観・習慣であることから、変化を恐れる。空想と現実・自分と他人の区別ができないものであるから、思い込みで潜在意識がつくられる。選択を迫られた時に、潜在意識の中にある記憶に照らし合わせ、思考・言葉・行動を無意識に選択するものでもある。この意識に占めるそれぞれの割合は、顕在意識が5%、潜在意識が95%といわれている。意識のほとんどは潜在意識という訳である。

 初めてMT車を運転する時に、シフトを操作し、クラッチを踏み、ギアを入れ変える。それは顕在意識を使っていることになる。その動きを潜在意識に焼き付けるまでは、頭と体が思うように動かず大変苦労する。しかし、潜在意識に焼き付けができ、顕在意識を使わず、無意識(自覚できない意識)になると楽に車を操作できる。

 日常生活の中で、ある問題に直面して「一歩も後には引かない」「この状況を必ず解決する」という強い気持ち(信念・執念)をもって集中していると、潜在意識に願望として刻まれる。そうなることで、潜在意識の中にある記憶に照らし合わせ、現状の打開という目的に向かって潜在意識を動かし、無意識にそれまで見逃していた情報も得られる。その情報をもとに、潜在意識にきざまれた願望を叶えるために必要な考え方や行動を取れるようにしてくれる。たとえば、物ごとの見方や捉え方も建設的に変わったり、人との関係においても積極性が増したり、好感をもたれるように変わっていく。書店に行けば、それについて詳しく載っている書籍が目に飛び込んできたり、テレビを見ていたら、それに関する話題の放送に気づく。このように、必要とする情報(人・物・条件など)をタイミングよく提供してくれる。これらが引き金となり、以前の自分では考えられなかった「ひらめき」が与えられ、問題解決に導いてくれる。

 私も、「できない」「駄目かもしれない」と思ったことが何度かあった。それでも負けてしまわぬように自分のすべてを注ぎ込んで挫けず、強い気持ち(信念・執念)をもち続け頑張っていると、本当に不思議としかいえないような偶然に助けられ、問題解決の糸口(創造の元)になる「ひらめき」が生まれた。たとえば、「寝ている間に解決する」とか「朝起きたら解決する」などと、強く自己暗示することで、ゴールが遠い場合は、今までどのようにしてきたのか(勉強が足りないこと)に気づかせてくれる。ゴールが近い場合、ズバリ解決に導く方法を気づかせてくれるようなことがあった。このように潜在意識をうまく活用できれば、私の身に起きたような「ひらめき」を頻繁に生みだせることになる。

 ここで肝心なことは、その人の才能によって「ひらめき」が与えられる訳ではないというこである。成功に向かってチャレンジする我慢強さをもって限界まで頑張り続け、潜在意識まで深く浸透させた信念がある人にしか「ひらめき」は与えられない。それを活用し、学び、実践・創意工夫を積み重ねることが問題解決につながることになる。

 このようなことが、蓄積された知能的な含み資産を活かすことである。これが、会社の将来を決するものであり、自分の成功を得る(願望の実現する)ための助けになる。この潜在意識をどの程度使えるかが、幸せになるために必要なことであるともいえる。本当に価値のある(幸せな)人生を送るための相応の努力、つまり「このようにしていたら大丈夫」という理由の一つが、潜在意識を使い「ひらめき」を生むことである。

〖注意〗潜在意識は、とても便利なものである。しかし、行動を変えようとする時、一度焼き付けられたものの上に上書きしなければならないため、強い気持ち(執念・信念)が必要になる。

心の絆を結ぶ

『和を以ってとうとしと成す』「何ごとをやるにも、みんなが仲よくやり、いさかいを起こさないのがよい」とはよくいわれることで、人と企業の持続成長の決め手は、このような和も大切といえる。しかし、企業には生きていく・生き残るために、厳しい未来に挑戦し、周囲のさまざまな企業と競争していかなければならない。そうすると、私たちが達成したい組織の本当の和とは、仲間がなごやか(明るい雰囲気)だけではいけない。また、心を同じくするだけに留まることでもない。方向が分散せず、心を一つにすると同時に、力を合わせる輪でなければならない。更に、その輪を強くする一人ひとりの気力(情熱・熱量)が加わり、不均等にならないようにすることが組織の本当の和といえる。

 問題は協力の絆を何に求めるかである。一時の感情で握手したのでは、熱が冷めるにつれて絆は弱くなる。打算で結ばれたものは、困難に突き当たれば挫折の恐れがある。権力で結ばれたものは、強固な絆とはいえない。やはり最も強いのは、厳しい未来に挑戦する中で、お互いに「信じること」(志を掲げ、強固にする・慎む・敬う・譲る)といえるだろう。言い換えれば、あらいの人間力を高めるとした心の絆といえる。

 上司・先輩は、部下・後輩を大切に思っているから、部下・後輩から尊敬(感激)される。同時に、あの上司・先輩のためとなるような流れをつくる。そして、上司・先輩・部下・後輩が運命を共に歩むという心があれば足並みは乱れないものである。このように心の絆を結び信じ合うことができれば、全員奮起でき、どのようなことに挑戦しても恐れることはない。しかし、仲間から信頼されなくなり、心の絆という結び紐が切れたとすれば組織は乱れ、たちまち烏合の衆と化してしまう。

 信用・信頼は人が与えてくれるものでもなければ、お金で買えるものでもない。お互いを信用・信頼するためには、普段からの小さな積み上げが大切であるといえる。

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