私たち(私自身と仲間)の人生を本当に価値あるものにするため、あらいの経営理念である人と企業の持続成長という理想の道を追求していかなければならない。この理想の道を追求するための欠かせない根本(原点)・羅針盤(道しるべ)が『あらい学』になる。あらい学は、人生を迷うことなく悪いものから守るもの。失敗と経験ではなく成功と経験を手に入れるものである。
本来ならば会社も人も、よい影響を与えてレバレッジ(てこ)が常に掛かっており、先回り(準備)できているのが正常と考えるべきである。しかし、レバレッジが掛かっていない場合は、行き当たりばったりとなり、先回りは到底望めない。これが、最もといってよいほど企業のリソースである人(人的資源)お金・時間を奪う。個人であれば、人生の中の貴重な時間を膨大に使うことになる。お互いに、それらと引き換えに失敗と経験(遠回り)をすることになる。それでは、本当に価値のある人生は歩めない。本当に価値のある人生を歩むのであれば、それらと引き換えに成功と経験を手にしていかなければならない。
人生の時間は、考えているよりも長くはなく、取り戻せない貴重なものである。失敗は必要であるが、可能な限り、よい(魂を磨く)習慣を身につけることをやりなおす(元に戻る)ことは防がなければならない。人生の成功への近道は、誰に対しても公平に与えられている時間を、いかに無駄なく(有効に)使えるか否かである。
あらい学を忠実に貫くことは、柵の中に入れられ、自由や野性味を奪われてしまうと考えるかもしれない。しかし、結局は真の自由という喜びを手にする(人と企業の持続成長の)近道となるものである。
おおよそ「道」がつくものには、当然・成すべきこととしての基礎・構えを創る必要がある。よって、あらいでは、人と企業の持続成長という理想の道を追求する『あらい学』に、仲間一人ひとりが共有・共鳴する。そして、自身の内面の不完全さを見つめることにより、自分の道に対する構えを創り上げていかなければならない。
ゆえに私は、あらい学を仲間と共有、共鳴してもらうことを訴え、磨き続けなければならない。
『論語』に「君子は本を務む。本立ちて道生ず」とある。これは【何ごとつけ、学識・人格共に優れた、立派な人は根本に忠実である。根本をしっかり身につけておれば道は自ら開ける】という意味である。
『列子』に「多岐亡羊」の故事がある。これは【楊子の隣家で羊が一匹逃げた。そこで、なぜ人を大勢かり出すのかと聞くと、分かれ道があるからと言った。そして大勢の人で追いかけたがやがて、一同が羊を見失って疲れて帰ってきた。話を聞くと、分かれ道の他に、更に分かれ道があったからだと説明された。それを聞いて、学問も帰結する(幾つか違ったものが、結局は一つのものに帰りつく)原点は同様であり、そこを疎かにした学びから得るものはないと楊子は悟った】という意味になる。
「迷ったらもときた道に戻れ」とか、「スランプに陥ったら基本に戻れ」という教えがある。これは【もときた道とそこから走っているレールを自覚できていれば戻る必要はない。対して、それらをはっきり掴んでいなかったり、それに対しての忠実を忘れたり・怠った場合、もときた道や基本に戻らなくてはならない】という意味になる。
これら3つは、どんな時も欠かせない根本・羅針盤の必要性を説いている。
それらは、いうまでもなく私たちの人生にとって大切な役割をする(影響を与える)。しかし、ほとんどの人が、自分本位からの成り行きで深く考えない(先見しない・学ばない)。これを少し考えた(理解した)としても、ルールさえ決めない人もいる。ルールを決めたとしても「この程度・一度だけ」ならと、自分たちで決めたルールを破っても許されるとする。このような考えからの小さな決定が積み重なり、結果として、風土・文化は生まれてしまう。なぜ、そうなるか理解できないでもないが、そのままでは、後で困ったことになる。そのため、それをよしとする訳にもいかない。よって、私たちの経営理念である人と企業の持続成長を掲げ、厳しい未来に挑戦するための『あらい学』の意味を真剣に考える。自身が納得し、かかわる人に喜んでもらうために、自分の力を最大に発揮する。その姿を見て、部下・後輩は人と企業の持続成長の道を歩むことになる。そのような人を育てられる風土・文化が、私と仲間の人生を本当に価値あるものにできると確信している。
以上をもって人と企業の持続的な成長を追求するための『あらい学』とする。このあらい学を共有、共鳴することは束縛であるとする人もいると思う。しかし、自身で考え動いていくための基礎となることも事実である。更に、自由を手に入れられるものにもなる。このような成長を喜びと考えられる人に育っていただきたい。